2012年01月25日

高啓新詩集『女のいない七月』






 高啓の新詩集『女のいない七月』(書誌山田・税別2,500円)が上梓されました。

 カバーは、なんという名称か分かりませんが、薄く明るめの緑から水色の系統の色です。ここに掲載するに当たり、デジカメで撮影し、簡単な画像ソフトで色を調整してみましたが、本物に近い色が出ませんでした。タイトル文字は金色です。全体として落ち着いた色調のなかに、繊細な艶やかさを感じる表紙です。

 表紙のカバーを取ると、白い本体の表には、木の形をした小さな刻印があります。収録作品に木や森の出てくる詩があるので、それをイメージしたものでしょうか。

 装丁者は亞令さん。亞令というのは、書誌山田で編集・製作を担当している大泉史世さんの装丁者としてのお名前です。装丁についてはすべてお任せしました。

 中身は活版印刷です。昨年3月の震災で、東京の活版印刷所は大きな被害を受けたそうですが、この詩集の製版作業の頃にはだいぶ持ち直したということでした。

 帯の文章は、編集者が詩集収録作品の一部を幾つか抜き出してコラージュしたものです。
 全体として、いつもながら丁寧な本作りです。

 1月末には大規模書店などに配本される見込みです。興味のある方は書店で手にとってご覧ください。また、お近くの書店に配本されていない場合は、頒価2,500円(消費税不要・郵送料当方負担)でお送りします。このブログ画面の右側の「オーナーへメッセージ」からメールしてください。
 なお、そのうちインターネット書店でも取扱いになると思います。

 前々作『母を消す日』、前作『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』についても、当方に在庫があります。これらは、ネット書店でも取り扱われています。最近、アマゾンを見たら、『ザック』の中古には、なぜか124円から5,000円超まで幅のある値段がついていました。(注:アマゾンで著者検索する際は、高と啓の間にスペースを入れてください。)
 
 2ヶ月ほど前の話ですが、『ザック』は都内のジュンク堂や仙台の丸善などの詩集コーナーに置かれていました。
これは2007年刊。毎年大量に出版される詩集のなかでここまで置かれているということは、何冊かは売れているということでしょうか。それともこの詩集に目をかけてくれる書店員さんがいらしたということでしょうか。


 書肆山田のサイトもご覧ください。




  
Posted by hiraku at 00:46Comments(0)TrackBack(0)作品情報

2011年12月03日

現代詩ゼミナール東日本 in 青森



 2011年10月8日(土)、店頭にうまそうなりんごがあふれる青森市で、日本現代詩人会の「現代詩ゼミナール東日本 in 青森」が開催された。(会場:青森駅側の「ねぶたの家“ワラッセ”」イベントホール)
 このゼミナールは、日本現代詩人会が東日本と西日本で毎年1回ずつ開催するイベントで、その企画・運営は基本的に地元の詩人たちによる実行委員会(開催県在住の日本現代詩人会会員と地元の詩人会による場合が多い)に委ねられている。
イベントへの参加は会員にのみならず、広く一般に開放されている。
 このゼミナールのプログラムのひとつとして、詩人による自作詩の朗読が恒例になっており、東北での開催ということで、地元青森を含む東北各県から詩人が招待された。高啓は、山形県の詩人としてこの催しに招かれ、自作詩を朗読した。

< イベント内容 >
 1 シンポジウム「高木恭造と村次郎の詩について」
    パネラー:圓子哲雄、山田尚、藤田晴央
 2 詩人たちによるポエトリー・リーディング
    麻生 直子(東京都)
    齋藤 貢 (福島県)
    秋 亜綺羅(宮城県)+舞踏・伊藤文恵
    高  啓 (山形県)
    菊池唯子 (岩手県)
    成田豊人 (秋田県)
    高橋玖未子(青森県)
    佐々木英明(青森県)+舞踏・福士正一
 3 津軽三味線演奏と舞踏
    演奏:山上 進
    舞踏:福士正一、伊藤文恵


1 シンポジウムについて

 高木恭造(1903~1987)は、青森市生まれ。旧満州で青春期を過ごし、弘前で眼科医となった。方言詩が3篇、真壁仁編『詩の中にめざめる日本』(岩波新書、1966)に収録され、英訳もされたことで、方言詩集『まるめろ』が高く評価されたという。
 村次郎(1916~1997)は、八戸市生まれ。慶応大学仏文科に入学。画家になりたかったが、反対する父と衝突し、「何にもならない人間になりたい」と思春期から思っていたという。話す言葉は八戸弁だったが、詩はすべて標準語だった。高木の『まるめろ』を評価してはいたが、基本的に方言詩は認めなかったという。また、日本語は朗読に適さないとして、決して詩の朗読をしなかったという。長く「幻の詩人」として語られてきたというが、今年、『村次郎全詩集』が出版された。

 じぶんはどちらの詩人についても知識を持っていなかったが、両詩人の紹介を聞いていくうち、方言詩に対して相反する見方を持った二人を取り上げたこのシンポの議論の行方に興味をもった。じぶんも基本的に“方言詩”(つまり方言で書かれていることに意味を持たせている詩)については、これを認めないという立場であり、その根拠(認めないという姿勢の根拠)が重要だと思っているからである。
 しかし、その期待ははぐらかされ、当日のパネラーの話は両詩人の人柄や著作を語ること及びこれらの詩人たちとパネラー自身との関係に関する記憶を語ることに留まった。
 一般参加者にも開放したこのようなイベントで、郷里の詩人たちをより深く知ってもらおうとする試みに異議を唱えるつもりはないが、もう少し普遍的なテーマに繋がる議論の展開を心がけてほしいと思った。

2 詩の朗読について

 高啓と佐々木英明氏以外の詩人たちは、すべて東日本大震災に関わる作品を朗読したが、はっきりいえば、ろくな作品が無かった。
 この時期に、八戸など太平洋側の地域が被災した青森県で開催されたゼミナールで、しかも東北各県から詩人が招かれているのだから、大震災や福島第一原発の原子力災害に関する作品を発表または朗読しない方が不自然なのかもしれないが、そのテーマを取り上げればなにか切実な作品になるかというと、そんなことはさらさらないのである。

 高啓は、震災にも原発事故にも一言も触れず、いわゆる“つかみ”代わりに先日の2泊4日の知床行の途中で新青森駅で青森行きへの乗り継ぎを間違えて大慌てでタクシーに飛び乗った話をして、その後、「女のいない七月」という作品を朗読した。
 この作品を選んだのは、「山形詩人」に発表したこの作品が『詩と思想』誌(2011年1・2月合併号)の「2010ベストセレクション」に掲載され、すでに不特定の人々の目に触れ得る状況になっていたからである。
 イベントの後で催された交流会で、幾人かから「女のいない七月」の朗読について話しかけられた。そのうちの半数は、この作品の性をめぐる表現からか、にやけたような冷やかしのまなざしを浮かべていたが、残りの半数は真面目な面持ちで面白い詩だと評価してもいた。


3 福士正一氏について

 青森に住み、青森を拠点として活動している「オドラデク劇場」主宰の福士正一氏の舞踏を初めて観て、その後の交流会で初めて言葉を交わした。
 福士正一氏は、山形大学演劇研究会でじぶんより3年上の先輩だったが、じぶんが入部したころ、福士氏はすでに同劇研の活動と距離を置くようになっていたので、学生時代は対面したことも言葉を交わしたこともなかった。ただ、山形県在住の舞踏家・森繁哉氏の公演を手伝った際に、福士氏を見かけたことはあり、その名前も知っていた。
 彼は、マネージャーのように連れ添う夫人と一緒に各地に出かけ、国内外で舞踏公演を行っている。作風は飄々としたもので、舞踏用にメイクしたときの風貌はどことなくチャーリー・チャップリンを思い起こさせる。
 ただし、メイクして舞台に立った際のイメージとメイクを落とした素顔とはとてもかけ離れている。
 この日の交流会には20代の若い弟子(?)のような男性を伴っていて、明日の日曜日もどこかで一緒に舞踏をするのだと言っていた。
 じぶんとしては、35年を経て初めてこの先輩の人となりに触れ、言葉を交わしたわけであり、まずはこれだけでも今回の青森行の意義があったと思う。


4 青森の印象、その他

 青森駅前とその周辺の観光施設は小奇麗に整備されているが、以前より青森市のイメージが縮小したという印象を受けた。「以前」というのは、17~18年前だろうか、家族6人で弘前城址の桜を観に訪れ、その帰り道に青森に寄って、棟方志功記念館を訪ねたのだった。
 りんごと紅葉の季節である10月上旬のこの土日、青森県は書入れ時の観光シーズンで、列車や青森や弘前のホテルは満員のようだった。だが、青森駅前の人通りは少なく、駅近くのビル内に移転した海鮮物や農産物の市場もそれほど混んでいる様子はなかった。東北新幹線が青森まで開通するのと合わせて実施されたJR東日本のデスティネーション・キャンペーンが終わり、しかも福島第一原発の爆発事故の影響による観光客の減少を受けて、この青森の地もあえいでいるように見えた。
 とはいうものの、どちらかといえば閑散とした青森駅前の風情は、それなりに魅力的でもあった。
 駅前のカフェ・レストランでランチを食べ、夜は交流会の流れで、これまた駅前の古い喫茶店かつレストランかつ居酒屋みたいな、小母さんががひとりで営業している小汚い店に連れ込まれた。われわれだけでその小さな店はすし詰め状態となり、小母さんも何をしていいかわからずパニックに陥ったようだった。結局じぶんたちのテーブルに出てきたのは一升瓶とぐい飲み、それに袋入りの乾き物のだけだったが、この駅前空間を満たしていた日中の土産物店の店先のりんご達の香りが感覚に残り、なにかほのぼのとした雰囲気のなかで過ごした。

 今回、じぶんを山形県の詩人として呼んでくれたのは、このゼミナール企画・運営の要となった弘前在住の詩人・藤田晴央氏である。
 東北でこの東日本ゼミナールが開催される際は、これまでも東北各県から自作詩の朗読者を呼ぶことが恒例となっていたが、各県からどの詩人を呼ぶかについては、開催県の実行委員会が各県の詩人会に選出を要請する場合が多かったようである。2008年に山形県で開催した際もそのように計らったのだった。
 しかし今回、青森県の実行委員会は各県の詩人会を通すことなく、いわゆる一本釣りで各詩人に直接に朗読を依頼したということだった。
 藤田氏は、2005年のH氏賞の選考委員をした折に、最終選考で落選となった高啓の詩集『母を消す日』を何度も読み返して、当時から印象に残っていたのだと語った。
 じぶんは、「招待の電話をいただいた際あなたにそう言っていただいたので、そのときの選考を特集した雑誌『詩学』を書棚から引っ張り出して、そこに掲載された各選考委員の選評を改めて読んでみましたが、藤田さんは、受賞作との決選投票になった高啓の詩集にはまったく触れていませんでしたよ。ほんとに印象に残っていたのですかぁ?」と突っ込みを入れた。
 すると彼は、「じぶんのポリシーからすると、受賞作の作風を支持するのが自然でしたから」と返したのだった。藤田氏の詩を読むと、むべなるかな、という感じではある。

 以下は余談。
 翌日の日曜日、弘前在住の藤田氏がこのイベントに参加した詩人たちを連れて弘前市内の文学に縁のある場所を案内するエキスカーションを企画してくれたのだが、じぶんはそれには参加せず、朝一で帰路に着いた。
 この時期、山形市では「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」が開催されていたからである。
 帰形した当日の夜と翌日の夜、会場のひとつである山形美術館で、大島渚監督作品『新宿泥棒日記』(1969)と若松孝二監督作品『天使の恍惚』(1972)を観た。(この2作品は、山形市出身の女優・横山リエが出演していることから、この映画祭の一企画「山形映画人列伝」として上映されたものである。)
 どちらも有名な作品なので若干は期待していたのだが、それぞれに陳腐な駄作であった。こんなことなら弘前にもう1泊してくるのだったと思った。(苦笑)        (了)



P.S.
 なお、「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」では、このほかに山形まなび館で催された「土本監督との再会」という企画で、「1996年7月14日記録映画作家土本典昭」(山上徹二郎制作・演出)という土本監督へのロング・インタビューを撮影した作品を観た。
 土本監督が酷いアルコール依存症と入院治療を経験していたこと、ソ連崩壊に大きなショックを受けていたこと、水俣の相思社の活動に関わり、1989年の「甘夏問題」による組織の混乱に深く傷ついていたことなどを知った。

  
Posted by hiraku at 03:24Comments(0)TrackBack(0)活動・足跡

2011年12月01日

モンテ降格決定、そして・・・。



 11月3日(木・祝)の第31節、アウェーの神戸戦に0―2で敗北し、ついにモンテの降格が決定した。

 モンテについては、前回の書き込みからずいぶん時間が経過してしまったが、この間、観戦を怠っていたわけではない。
 第26節・9月17日(日)、東日本大震災前のアウェー開幕戦で破れた雪辱を期すべく臨んだホームの川崎戦(0-1で敗北)。 第28節・10月1日(土)、2009年のJ1デビュー戦で快勝して以来、比較的相性のいい相手だったのにホームで1-1の引き分けに終わった磐田戦。 第29節・10月16日(日)、ジャッジ・ミスの疑念が濃厚なPKで0‐1となり、悔しい敗北を喫したアウェーの柏戦。 そして第30節・10月22日(土)、0-5で大敗したホームのガンバ大阪戦。
 この4試合を、半分は祈るような気持ちで、もう半分は妙に覚醒しつつ、じっと観戦してきたのである。

 ついでに言うと、柏のホームでは、SS席だったのでモンテのタオルマフラーを首にかけて入場し、ゲートを入ってすぐの売店に並んでいたら、「おい、おっさん。空気読めよ!」と若い兄ちゃんに因縁をつけられ、タオルマフラーを取らされる(ただし席ではただ一人ずっと着用したが)というオマケまであった。
 ついでに柏市の感想を述べると、柏駅に降り立ってもスタジアムへの経路についてはなんの案内表示もなく、しかも日曜日は駅前が歩行者天国になっていて、駅前のバス乗り場にバスが来ないのだが、その場合の乗り場の案内さえない。案内所がないどころか、改札にさえ駅員は一人も居らず、キオスクのおねえさんも「あたしこの辺の人じゃないから」とつれない。賑やかな駅前ではあるが、柏はとんでもないド田舎である・・・と、印象が悪かったので酷評しておく。(笑)




 ・・・とここまで書いたところで、11月19日(日)の第32節のホームでの福岡戦を観戦。
 このゲームで、モンテは最下位の福岡に0-5で完敗し、ついに最下位に転落。・・・というより、どん底に落ち込んだと言うべきだろう。
 この前段で、11月16日(水)にはやはりホームで天皇杯3回戦をJ2の京都と戦い、2-3で逆転負けを喫していた。
 この寒い季節に、しかも冷たい雨の中のナイトゲームが続き、中2日のモンテ選手たちのコンディションはよくなかったかもしれない。また、このゲームに先立って、クラブから来季は小林監督との契約をしないとの発表が行われていたから、意気が上がらなかったのではあるだろう。
 しかし、やはりこのゲームの内容は、今季のモンテを象徴するゲームだったと言わなければならない。
 要するに、“先取点を取られたら取り返すことができない”ということに尽きる。せめて1点をと焦って前がかりになり、全体のバランスが崩れる。瞬発力でも持久力でも相手より劣っているのに、焦ってバタバタと攻撃にエネルギーを使うから、すぐにバテて大量失点という結果になるのである。

 福岡戦の終了後、じぶんはすぐ帰途についたのでその後にスタジアム周辺でなにがあったかは知らない。ただ、後日、NHK山形の報道番組で、ゲーム終了後にサポーターらがフロントに抗議し、運営主体である「社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会」(略称・「スポーツ山形21」)の川越理事長の辞任を求めたことを知った。
 じぶんはひとりのNSBFに過ぎず、事情通ではないが、以下にこの一連の状況に対する若干の感想を述べておきたいと思う。

 まず、サポーターらが川越理事長の辞任を求めた点について。
 報道によれば、サポーターらは、県職員OBである川越氏では、赤字を抱えてJ2に降格し、今後ますます経営手腕が問われるフロントの業務を担うことができないので、民間企業の経験がある人物を理事長にするよう求めたということであった。
 川越氏は、県の土木の技術職として勤務する傍ら、県サッカー協会の役員を務めてきた方であり、いわゆる「県からの天下り」と見るか、それとも順当な人事と見るかは人によって分かれるところだが、たしかに「経営手腕」という点では多分に疑問符がつくというのが一般的な見方であろう。
 じぶんは、たまたま40歳前後の川越氏を見知っていたが、そのころの印象からすると、彼が経営の厳しい、したがって営業活動に心血を注がなければならないプロビンチアの経営陣のトップである理事長に任命されたとき、少しく驚いたものだった。しかし、もちろん人は時間の経過ともに変化するから、昔の印象だけで彼がクラブのトップになる資格がないと決め付けるつもりはなかった。なるべく先入観を持たないようにして、予想が裏切られることを期待しつつ、モンテの一ファンとしてこの1年を観察してきた。
 しかし、それにしても、川越氏がクラブの経営強化に貢献してきたとは思えない。サポーターを増やすため、県民にモンテの支持を広げることに心血を注いできたというようにも見えない。
 夏までの間に観客動員数の減少に対して危機感を持ち、動員力の強化とスポンサーの確保にもっと早く、もっと必死で取組むべきだった。少なくても、必死で取組んでいるという姿を県民に見せるべきだった。
 じぶんは、難しい経営を強いられる弱小クラブのトップという重責に答えられなかったからといって、とくに川越氏個人を責めるつもりはないが、クラブの最高責任者としてはやはり結果に責任をとるべきだと思う。また、彼を理事長に任命した理事会、とりわけ理事会で相対的にもっとも実権をもっているはずの山形県、すなわち副理事長の高橋副知事にも川越氏任命の結果責任を感じてもらいたいところである。
 今季開幕前、モンテのGM(=スポーツ山形21の専務理事)の中井川氏と少しだけ話す機会があった。これはあくまでじぶんの印象であって彼が口にしたことではないが、中井川氏は、チーム運営のほか、戦力強化とサポーター拡大と営業活動とに、つまりは経営の全般に一人先頭に立って取組まざるを得ない様子で、非常に大変そうだった。じぶんは、これではチームの戦力がどうのこうのという前にフロントの事情で「J1モンテ」の限界がくると感じた。
 今季の状況は、案の定・・・という感じである。

 (・・・とここまで書いたところで、11月30日(水)、山形新聞が、川越理事長が辞任する意向であると報じた。)

 次に、サポーターについて。
 サポーターたちが、スポーツ山形21の理事長の辞任を求める署名活動を行い、その署名簿を本人に手渡した様子をNHKの報道で観て、あらためてモンテが“県民のクラブ”になりつつあると感じた。
 サポーターたちは、モンテをじぶんたちのクラブだと考えているのだ。
 もっとも、Jリーグではその全てのチームにおいて、サポーターたちは自分たちがサポートするチームを“自分たちのチーム”だと考えていることだろう。そういう意味では、どこも同じかもしれない。
 だが、モンテディオ山形に関して言えば、その意味は一段と深いものになる。なぜなら、このクラブはJリーグで唯一の「社団法人」だからだ。モンテは「NEC山形」のサッカー部としてスタートしたが、J2に加盟するにあたって「社団法人」という形態にメタモルフォーゼを遂げた。
 それは経営基盤が弱いために株式会社として成立しえなかったからではあるが、同時に、県内の民間企業に県と市長会・町村長会が参加し、民間企業と自治体が全体で支えるという体制を選択したからでもある。だから、県民にとってもモンテはじぶんたちのクラブなのである。
 サポーターたちは、まず自分の意志によってモンテを支えているが、と同時に、この山形県というコミュニティの一員としても、“すでに/つねに”モンテを支えている。そのことの表出の一形態が今回の辞任要求だと看做しておきたい。

 しかし、同時にここにまた難題が存在するのでもある。
 このブログでこれまでも言及してきたが、プロビンチアを支えるということは、主観的な想いや単眼的な行動ではうまくできない。つまり、「おれたちはモンテが好きだから、モンテを支える」「おれたちはサッカーが好きだから、モンテを担う」だけでは済まない。理事長退任を求め、「民間企業の経験のある経営責任者を」と要求するだけでは済まない。言い換えれば、“批判型”や“要求型”の取組みでは済まないのである。
 2008年の「フルモデルチェンジ構想」に触れた際にも述べたが、サポーターやファン(=県民)には“批評的”な分析と“提案型”の対応を追求していくことが求められる。言い換えれば、じぶんがフロントに入ったらどう動くか、なにができるか、という発想が必要なのだ。モンテサポのブログをいくつかフォローしているが、こういう視点で書かれているものはほとんど見かけない。
J1復帰を目指すなら、そこにはつねに、モンテにもサッカーにも大して関心のない県民をどのように惹きつけるかという視線が据えられていなければならない。そしてそのためには、その展望を拓く能力を持った内外の人材(たぶん今はまだモンテにもJリーグにもそれほど関心を持ってはいない人間)を巻き込むことが不可欠である。



 さて、モンテの降格が現実味を帯びてきたのは、7月2日のアウェー新潟戦での敗戦からであるが、その後のホーム観客席の様子を窺っていると、観客は、モンテのふがいなさに愛想を尽かしたり自虐的に卑下したりする者と、モンテが負け続けても観客席でモンテを応援していることがごくごく自然のことだというように飄々と存在する者とに分離していき、節が進むにしたがって、前者が減り、相対的に後者の割合が高まっていくように思われた。
 11月19日の福岡戦では、観客はついに5,000人台まで落ちた。
 降格が決まり、チームはさらに負け続けていた。小林監督の契約更新をしないこと、来季は予算が大幅に縮小することが報じられ、冬の早い山形のこの季節にも関わらず、ゲームは雨の夜に行われた。しかも、相手は当時最下位の福岡だった。その分を勘案してこの数字をどう捉えるか。
 J1昇格以来昨年度まで、たしか、じぶんはコアな観客を8,000人程度とみていた。しかし、それは現時点で5,000人に修正しなければならない。だが、来季、この5,000人という観客規模を最低ラインとして維持できるなら、モンテは以前のJ2しか知らない時代と明らかに異なるモンテになっているだろう。いや、この3年間の「J1モンテ」以上のクラブになれるかもしれないと思う。
 

 12月3日の最終節はホームで、これまでとことん相性の悪い広島を迎える。
 モンテがどんな戦いをしても、モンテはわれわれのチームである。(了)





追伸(近況報告)
 9月に書き込みして以来、70日も書き込みしていなかったので、体調を崩しているのではないかと心配してくれた方もいたが、じぶんは無事である。
 じつは、北海道旅行の後、思いがけなくも帯状疱疹になり、その治療経過が紆余曲折を辿ったのでやや辛かったことはあるが、仕事を休むこともなく、というか仕事のほうはかなり忙しく、こうしてパソコンに向かう時間がなかったのである。
 なお、10月8日に青森市で開催された日本現代詩人会の東日本ゼミナールに山形県の詩人として招かれ、自作詩を朗読してきた。時間があればこのときのことをここに記しておきたいと思っている。
 また、現在、4冊目となる詩集を書肆山田から出版する準備をしており、二校が終わったところである。
                                                                                                                                                                                                                                


  
Posted by hiraku at 01:28Comments(0)TrackBack(0)サッカー&モンテディオ山形

2011年09月19日

大急ぎ 知床行 (その4)



 【第4日(火)】

 「JRイン札幌」で7:00頃目覚めてテレビをつけると、JRの状況は昨夜と変わりなく、やはり午前中は運休となっていた。ホテルが提供する数種類のパンと飲み物の朝食を済ませて、9:00ころ札幌駅を訪れた。

 人だかりの改札口には地元テレビ局のカメラの砲列ができ、予定が狂った乗客たちの表情を狙っている。案内の職員は、飛行機に乗り換える客向けに空港行きの列車の発車時刻を連呼している。
 とりあえずみどりの窓口で、「今日中に、なるべく内地に近いところに行けるようにお願いしたいのですが・・・」と、所持していた札幌発9:19「急行北斗8号」と新青森16:28発「はやて174号」の指定席券を指し出すと、職員は「今日中に仙台まで行けますよ」と言って、札幌発12:22「特急スーパー北斗12号」と新青森発18:28「はやて180号」の指定席券に交換してくれた。
 テレビニュースで、道南は記録的大雨に見舞われたと聞いていたので、午後すぐに運転が再開されるとは思ってもみなかった。それに、運転が再開されたとしても、「大人の休日倶楽部」の割引パスの期間中で内地から道内を訪れている旅客が多い時期でもあり、すんなり今日の午後の列車のチケットが取れるとは思っていなかった。まぁ、自由席に立ってでも今日中に函館まで辿りつければいいかくらいに思っていたので、運転再開後の始発となる「特急スーパー北斗12号」に座って乗れることは幸運なことなのだった。

 思いがけず札幌で時間ができたので、構内のミスタードーナッツでコーヒーを飲みながらノートに旅の記録をつけ、大丸デパートが開店するとその地階で職場と自宅用の土産、それに昼用の弁当を買った。けれどこれではまだ不足なような気がして、駅構内の物産店で毛ガニ(2ハイで5,500円くらい)の発送を注文した。当初の予定通りの行程だったら、旅の土産など買う暇も買う気持ちもなかったはずである。

 ほんとうに運転が再開されるのか心配していたが、「特急スーパー北斗12号」は定時に札幌を出発してくれた。
 例によって、じぶんはうとうとしはじめ、室蘭本線の沿線の風景をほとんど憶えていない。
 長万部のあたりで一度目を開けたが、気づくともう大沼公園に差しかかっていた。列車はやや遅れを出している、それで青森行きの客は五稜郭で乗り換えるようにとのアナウンスがあった。
 じぶんの席の後方から、次で降りる準備をして合席だった乗客に別れの言葉を告げているかのような一人の老人の声が聞こえてきた。
 「関東はもうみんな放射能で汚染されてしまったから、あなた方はお嫁にいくとき、放射能の検査をしてもらって証明書を持って行くんですよ。」などと言っている。どんな人かと思って振り向くと、短パン姿に片方の手で杖をついた脂肪太りの80歳前後の男性だった。
 「関東の自分たちはもう放射能に汚染されてダメになってしまった」「お嫁にいく時は先生にちゃんと検査してもらいなさい」という趣旨のことを、嘆息とも自己卑下とも取れるような口調で、何度も独り言のように、だが辺りに聴かせたい様子で繰り返している。「テメエのような年寄りが放射能でどうこうなる訳ないだろ! バカなこと言って老害を撒き散らすな!」と怒鳴りつけてやりたい気持ちになった。

 ところで、3時間余りのこの車中には、午前中の便の突然の運転休止によって、代わりの列車の指定席券を入手できなかった「大人の休日倶楽部」の利用者と思しき利用者たち、つまり高齢者たちが、たくさん乗車していた。先のデブじじぃは座っていたが、デッキや通路には60代後半から70代の男女らが数人、札幌から函館まで立ったままで過ごしていた。
 内地に帰るために必ず乗車しなければならばない函館発・新青森行きの「特急スーパー白鳥40号」の指定席券は、じぶんも入手できなかった。そこで、自由席に座るために、北斗を降りたら急いで乗り換えなければと思っていたのだが、この函館まで立ったままだった高齢者たちを見て、函館からはじぶんは立つ方にまわろうと、殊勝にもそんなことを考えたのだった。
 五稜郭に停車すると、こんなに大勢の高齢者が乗車していたのかと驚くほどの群れが、先を争って下車し、運動会の荷物運び競争のようにして階段を上り始めた。
 杖をついている者も目に付くし、大きなスーツケースを抱えて必死の形相で駆け出す者も少なくない。じぶんは最初から座席を諦めていたから、この人たちと奪い合う気などなかったのだが、その迫力にそれでもタジタジとなる。
 “自由席は何号車だ?”と老人たちは気色ばんで探す。五稜郭駅のホームで、やや遅れた「特急スーパー北斗12号」を待っていた「特急スーパー白鳥40号」の車体には、号車番号も指定席車か自由席車かの表示もまったく掲げられていないのだった。駅員や車掌がホームで質問に答えはするものの、自由席車両を求めて必死の形相で駆けてきた大勢の高齢者たちは、軽いパニック状態に陥った。
 しかし、彼らが必死で求めた自由席は、すでに始発の函館で大方埋まっていたのだった。それもそのはず、指定席車両のいくつかは修学旅行の中学生の団体で占められていて、そもそもこの列車には一般乗客向けの座席が少ないのだった。
 こうして、じぶんを含め、杖をついた者まで含めて、デッキや自由席車両の通路には、ワゴンサービスが通行を自粛するほど多くの乗客が立つことになった。立ち乗りの客の一部は、指定席車両の通路にまで及んだ。座席を向かい合わせてカードゲームやおしゃべりに興じる中学生と、その通路に立つ中高年の乗客が対照的だった。
 2時間あまりとはいえ、高齢者にとっては辛い乗車となったのではないか。「大人の休日倶楽部」の割引パスの期間は、いわゆるオフシーズンの期間に設定されている。その期間を利用して、6回まで無料で指定席が取れるこのパスでのんびり北海道旅行をと考えた高齢者諸君にとっては、このアクシデントは堪えるのではないか。・・・そんな心配をしたのだったが、すぐにその心配を吹き払った。
 考えてみれば、彼らの時代は、夜行の急行列車であの硬い直角の座席に長時間座って旅をするのが当たり前だったのである。「急行おが」や「急行津軽」で、学生時代のじぶんも何度か経験した。混雑の時期は、すし詰めの通路に新聞紙を敷いてそこに座ったり寝たりして列車に揺られた。満員で通路が通れず、窓から下車したこともある。・・・そんな旅が当たり前だった時代を過ごしてきたジジ・ババたちは、今でも逞しいに違いない。
 そういえば、網走の弁当の売店では、独りで杖をついて旅をしている片側半身マヒの客も見かけた。まだ60代で、脳卒中の後遺症のようだった。売店のあの厳しい親爺に、ポリ袋に入った弁当が傾かないように持てと言われて、それにたどたどしい口調で、自分は片方の手しか効かず、その手で杖を持っている。その同じ手に弁当を持つから、傾いてもしょうがないだろうという趣旨の返答を返していたのだった。
 やれやれ、旅する老人恐るべし、である。




 じぶんは自由席にすし詰めで立たされるのを嫌って、修学旅行の中学生の団体客が占めている車両の内に入り、その一番出口のところに立っていた。目の前がちょうど引率教師の席で、その教師たちの言動が嫌でも耳目に入る。気づくとその車両のデッキにはノーネクタイだが背広の上着を着た旅行会社の添乗員が立っている。新青森が近づくと、かれらは大きなバッグをいくつも持って降りようとする。どうもそれらのバックは引率教師たちのもののようだ。
 それに、たぶん添乗員の指定席は確保されていないようなのだ。かれらは、自由席に空席がないときは、いつもこうして何時間も立って添乗しているのだろう。それにくらべて、引率の教師たちは、添乗員に自分の荷物を持たせるのが当たり前だとでもいうようにふんぞり返っている。
 ずいぶん昔のことになるが、ある全国イベントの準備業務で旅行代理店の職員と一緒に1年ほど仕事をしていたことがあって、そのときに彼から旅行業者や観光業界の裏話をいろいろ聴かされた。その話のなかに、修学旅行が旅行代理店の業績にとってどれほど重要か、それを受注するために教師をどう接待するかなどの話があったことを思い出していた。

 立って揺られるまま、山形から持参したロシアの現代小説家ヴィクトル・ペレーヴィンの短編小説集『寝台特急 黄色い矢』(群像社)を、この旅ではじめて紐解いた。これはこの本の訳者の一人である中村唯史氏から頂戴したものだった。
 そうこうしているうちに列車は新青森に着き、そこから「はやて180号」に乗ると、なんだかほっとした。例によって、山形から持参した最後の「じゃがりこ」をつまみに500mlの缶ビールであっという間にうとうとし、気がつくと20:40仙台着。
ここで仙山線に乗り換えるのが、「大人の休日倶楽部」流ということなのだろうが、ここでは1時間の時間節約のために、仙台駅前からの高速バスを選択する。
 そして、バスは22時ころ、無事、山交ビルに到着。
 当初の計画では、仙山線経由で山形駅到着を20:56としていたから、大雨による運休の影響は、札幌を発つのが3時間遅れたにも関わらず、僅かに1時間遅れの帰形というかたちで、目出度く収まってくれたことになる。

 じぶんの場合、旅の目的も旅の意味も、その旅の途中では解らない。格別に用事のない一人旅のときはいつも、目的地に行って帰る、そのことだけに夢中で、あとのことは考えていないような気がする。この知床行もそんな旅だった。
けれどまた、1970年代に当時は光り輝いていた北海道のイメージに憧れたようにではなくて、まったく別の視点から北海道の各地をもっともっと丁寧に見て歩きたいと思うようになった。
 この記事を書いた当日、これまで遺書らしきものを残して失踪していたJR北海道の社長の遺体が、小樽の海で見つかったことが報じられた。様々な困難を抱えているであろうJR北海道の奮闘を願いつつ、「大人の休日倶楽部」割引パス(23,000円)に感謝して、この記を閉じることにする。 (了)
                                                                                                                                                                                                                         


  
Posted by hiraku at 02:47Comments(0)TrackBack(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月17日

大急ぎ 知床行 (その3)



 【第3日(月)】

 この日もまた大急ぎの行程を組んでいた。
 6:30ころ起床。7:00に宿舎の広間で、地元産の温野菜(ジャガイモとニンジンとブロッコリー)が中心の朝食。普段は食パン1枚に牛乳1杯の朝食だが、箸が進んでご飯を2膳いただく。
 それから、カウンターでウトロ温泉バスターミナルまでの送迎を頼むと、職員が「今日は船に乗るんですよね? この天気なので、今日は条件付運航になりますよ。」と話かけてきた。
 この日は、「ゴジラ岩観光」という会社の観光遊覧船に乗って、知床半島を海から見物する予定だった。「条件付運航」というのは、海が荒れそうな場合、船長の判断で予定のコースの途中でも引き返すこと、そしてそれを了承した者だけを乗船させるという意味だった。
 紀伊半島などに大きな被害を与えた台風12号が北海道に近づき、前の晩から風雨が始まっていた。危険だと判断されたら引き返すことは当然了解の上だった。
 なにしろ、じぶんは船酔いがひどく怖い人間である。これまで厳冬期の荒れた津軽海峡を何度も青函連絡船で渡ったり、石垣島から西表島まで東シナ海のうねる海原を小さな連絡船で往復したり、釣り船で沖に出て釣りをしたりしたことなどはあり、それでもゲーゲー吐くほど気分が悪くなった経験はないのだが、何故かひどく船酔い恐怖症なのだ。
 それで、知床半島の突端までいく3時間のコース、ヒグマを観察する2時間のコース、途中の硫黄山まで往復する1時間のコースという3つのうち、一番短時間の硫黄山コース(3,000円)に申し込んでいたというわけである。

 「国民宿舎・桂田」の送迎で、10時前には「ゴジラ岩観光」の事務所に到着した。
 10:30の出航時間まで、事務所のなかに置かれていた知床の海洋生物の写真集を見た。写真家の名前は記憶しなかったが、これが素晴しい写真集で、この北の海がこんなに豊かなのかと驚かされた。どうりでこの知床が、世界遺産としてその半島の沿岸の海の区域を含めて認定されているわけである。
 観光客たちが窓口でレンタルの雨具を借りるのを尻目に、じぶんは持参したゴアテックスの登山用雨具を着用して、登山用のツバのついた帽子を被った。
 時間が来ると、この便の乗客30数人は事務所の職員の先導ですぐ近くのウトロ港まで歩かされる。その途中にそそり立つのが、まさにゴジラそっくりの「ゴジラ岩」である。

 台風が接近する状況だったが、以外にも海は凪いでいた。雨も弱かった。
 半島の岩壁の変化に富んだ造形と、そこから流れる「フレペの滝」「湯の華の滝」「カムイワッカの滝」など岩肌から流れ落ちる滝を観ながら、最果ての自然景観の一端を垣間見た。
 意外だったのは漁業用の網の仕掛けと思われるブイが沿岸のあちこちに浮いていたことだった。
 環境省のHPで知床国立公園の区域図を見ると、沿岸の海域は国立公園の普通地域になっている。世界遺産の地で、自然保護と漁業の調整はうまくいっているのか・・・そんなことを考えながら、潮風に吹かれていた。
 この生憎の天気で、半島の中心部に連なる硫黄山など知床の山々の姿は見られなかったが、むしろこのように昏い半島の表情こそがこの風光の表象として(あるいはこの地に関する自分の記憶として)相応しいような気がした。
 下船すると時刻は11:30を回っていた。
 ウトロ温泉街の中心の信号機からバスターミナルの方向へ歩き出し、すぐ近くの「ボンズホーム」という店で昼食をとることにした。いくつかのガイドブックに紹介されているジャガイモのグラタンの店である。甘いジャガイモを「栗じゃが芋」と名づけて販売している。
 じぶんはジャガイモがそれほど好物ではないので、カレーにした。味は良かったが、ご飯にカレーがあっさりしかかかっていない。この店の主人が「ボンさん」という渾名らしい。カウンターには、客に心情移入することがなさそうな感じがして、そこが“美人”にみえる魅力的な奥さんがいる。
 珈琲をゆっくり味わいたいところだったが、注文の品が出てくるのが遅くて、バスの発車時刻が迫ってきた。この日のうちに札幌まで戻る予定だったが、急に思い立って知床五湖に立ち寄ることにしたのだ。大急ぎで珈琲を流し込んで、バスターミナルに向かう。
 知床五湖行きのバスは12:30発だった。バスはプユニ岬の上り坂をぜいぜいと越えて、25分ほどで知床五湖に着いた。




 知床五湖フィールドハウスの駐車場には、観光バスの団体客が大勢押しかけている。雨は本降りになり、横殴りの風も吹いてきたが、団体の観光客たちは傘や携帯のビニール合羽程度の井出達で、ずぶ濡れになりながらバスガイドや添乗員に引率されて高架木道を歩いていく。
 じぶんは14:00のバスでトンボ返りしなければならない。それで、レクチャーを受けてからでないと入れない地上歩道の散策は断念し、観光客に混じって無料で誰でも自由に入れる高架木道を歩き始めた。狭い歩道を帰ってくる観光客(彼らは風雨に向けて傘をさしているので前方を見ていない)を避けるのに神経を使いながら、それでも800mほど高架木道の先端まで歩いた。
 高架木道の外側には、ちょうど“ネズミ返し”のような塩梅にヒグマ避けの電線が張られている。木造の高架橋ではあるが、いかにも頑丈な造りで、ハイヒールでも車椅子でも歩けるように設えられている。年間約50万人が訪れるという観光地だそうだから、こんな施設も必要にはなるだろう。(「知床五湖」利用のルールについてはhttp://www.goko.go.jp/rule.htmlを参照のこと)
 自然保護と観光とのバランス、それにヒグマ出没の危険(というよりもヒグマ出没による「立入り禁止」措置の危険か)を考えて、いろいろ知恵を絞ったところだろうが、その議論の過程は「知床五湖利用のあり方協議会」のサイトhttp://dc.shiretoko-whc.com/meeting/5ko.htmlで垣間見ることができる。
 「世界自然遺産」というネームバリューを得たのだから、多くの観光客を招いて経済効果を得ようとするのはわかる。しかし、訪ねてみるとまさにカッコつきの観光地“過ぎる”印象ではある。
 上記の協議会も、自然保護団体や自然保護の専門家や学識経験者の参加がなく、もっぱら利用者・観光業者の立場のメンバーによる構成である。もし山形県でこの種の協議会を立ち上げることになったら、こんなメンバー構成では通用しないだろう。
 この方策を支持できるとしたら、観光客を「知床五湖」で堰き止めて、これより深い場所に入れないようにすることと、ここであがる収入を自然保護に効果的に活用することが条件になると思われる。
 なお、参考まで、月山山麓のブナの森にある山形県立自然博物園の場合は、歩道への踏圧や周囲への影響を考えて、年間の入場者数を3万人程度に抑えていたと思う。
 
 さて、この旅では交通機関の乗継の心配が頭から離れない。焦る気持ちを抑えながら14:00知床五湖発、15:10斜里バスターミナル着のバスに飛び乗った。知床斜里駅を15:20に発つ列車に乗らないと、今日中に札幌に着くことはできなくなるのだ。
 バスはウトロ温泉バスターミナルから何人かの高齢者を乗せ、彼らを「オシンコシンの滝」のバス停で下ろした。高齢者たちの動作は遅く、しかも観光気分でのんびりと行動しているので、10分しか乗り継ぎ時間がないことが気になってくる。斜里からウトロに来るときは極めて順調に走って50分だった。だがこの調子では、50分で戻れるか危うい。途中でさらに乗降客がいたり、ちょっとでも通行障害があったりすると、15:20発の列車に間に合わないのだ。
 だが、結果的にはここでもうまく乗り継ぐことができた。バスは例によって朱円の一本道を順調に走り、定刻に数分ほどの余裕をもって斜里駅前のバスターミナルに到着した。それに列車も斜里駅発のようだった。北海道はさすがに観光立国だわ・・・と、札幌弁風にこのときは思った。
 



 釧網本線の普通列車は、右手にオホーツク海を見ながらたんたんと走る。だが、車窓には廃屋が目立つ。左手の牧草地ではサラブレッドが草を食んでいるが、期待していた清水原生花園は雨で霞み、季節外れなのか花たちの姿を見つけることはできない。
 ザックから例の「初孫」紙パックを取り出し、コップに半分ほど注いだ酒をちびりながら薄暗い雨の海を眺めている。冬にはこの区間に「流氷ノロッコ号」が走るのだろう。鱒浦から網走港にかかるあたりで、この旅で初めて“旅情”というようなものが腹の底から微かに湧いてくるのを感じた。
 こうして列車は16:07に網走駅に到着した。17:18網走発の「特急オホーツク8号」までの待ち時間にどこかでビールでも引っかけようかと駅前を眺めたが、駅前にはただ線路と平行な道路が一本通っているだけで、ビルやホテルはあるが、飲食店どころか商店の看板の影さえ見えない。仕方なく駅の待合室で「なでしこジャパン」のオリンピック予選である北朝鮮戦の前半を観戦。そして、そこにあった売店から駅弁の「シャケいくら弁当」(1,150円)を買い込み、「特急オホーツク」の中で早めの夕食とすることにした。
 売店の親爺は怒っているように見えるほどハキハキと喋る人で、注文を取ってから駅の外にある厨房に携帯から連絡を入れて弁当を作らせ、それを発車時刻まで届けさせるのだった。あの「ボンズホーム」のママとこの売店の親爺の風貌は、なぜか旅の印象に残っている。
 ところで、この「シャケいくら弁当」だが、開けてみるとシャケの解し身がたっぷりで、中央にイクラも少なからず盛り込まれていた。それで見た目は感激するのだが、食べ始めると極めて塩っぱい。この塩っぱさは半端でなく、途中で日本酒の肴にと気分を切り替えたのではあるが、それでも食べているうちに気持ち悪くなるほどだった。
 車窓はすっかり暗くなっている。「特急オホーツク」は、石北本線を順調に走る・・・かのように思われた瞬間、真っ暗な区間に突然停車した。車内アナウンスでは、「エゾシカに追突しました」という。
 しばらく停車し、その後、客車の通路を車掌がはぁはぁ言いながら走っていってから、やがて列車は走り始めた。

 片山虎之介著『ゆったり鉄道の旅(1)北海道』(2006年・山と渓谷社)から引用してみたい。

 「もうひとつ、石北本線で忘れてならないのは定紋トンネルのことだ。北海道の鉄道は、石北本線に限らず、その敷設工事に多くの犠牲者が出ている。特に悲惨なのは、『タコ』と呼ばれた労働者たちだ。都会など他地域からほとんど騙されるようにして工事現場に連れてこられた労働者たちは、タコ部屋と呼ばれた監獄同然の部屋に押し込まれ、囚人に等しい監視を受けながら強制的に働かされた。過酷な労働に虚弱な者は落命し、脱走を企てたもの(ママ)は捕らえられ、見せしめのために撲殺されたという。激動の時代だったとはいえ、悲しい歴史だ。昭和45年に生田原―金華間にある定紋トンネルで、レンガで覆われた内壁の中から、人柱にされたと思われる人骨が発見された。」

 ここでは激動の時代としか言っていないが、ウィキペディアによれば、このトンネルが開通したのは1914年(大正3年)という。
 こんなことも知らず、じぶんはひたすら今夜中にこの列車が札幌駅に滑り込んでくれることを願っていた。

 さて、22:38札幌着予定の「特急オホーツク8号」は、いくらか遅れつつもとにかく無事に札幌に辿りついてくれた。これまで人口密度の薄いところばかりを通ってきたからか、深夜の札幌駅の人混みと光量は格別で、ずいぶんと違う世界に出てきたような感じがした。この落差が北海道の困難さを表わしてもいるのだが。
 まっすぐに、予約していた駅近くの超豪華!ホテル「JRイン札幌」(7,000円)にチェックインし、とりあえずシャワーを浴びると、テレビで台風による大雨のニュースが流れた。そしてテロップで「午前中運休 函館本線・・・・」との表示が流れたのである。(が~~ん)
 明日中に山形に帰りつくために、9:19札幌発の「特急北斗8号」、13:56函館発の「特急スーパー白鳥34号」を乗り継いで内地に戻り、16:28新青森発の「はやて174号」で19:37に仙台まで辿りつく計画だったのである。
 とにかく詳しい情報を得て、できるなら今夜中に、明日少しでも山形に近づく列車の切符を手に入れたいと思い、ホテルを出て札幌駅に向かった。時刻はすでに0時を回っていた。
 すると、隣接する大丸デパートや駅ビルの出入り口と共通の札幌駅の入口はすでに全て施錠されていて、中の広い通路にも駅員の人影さえ見えないのだった。つい先ほど降りたった駅とはまったく別の表情で、扉にお知らせの張り紙もなく、大雨による足止め客の問合せを拒否している冷たい駅がそこにあった。JR東日本なら、大都市の駅で乗客にこんな扱いをすることはちょっと考えられない。
 致し方なく小雨の中を歩いて帰った。深夜営業の居酒屋はまだ開いていたが、明日新たに帰形の方途を見出さなければならないことを考えると入る気にならない。じつは上司に「遠くまで行くので、交通機関の関係でひょっとしたら水曜日も休みをいただくかもしれません」と断ってはきていた。だが、職場やじぶんの仕事の状況を考えると、3日連続で休みを取ることは柄にも無く憚られていたのである。
 ホテルの向いのコンビニでビールを1缶(これもサッポロクラッシック)とサラダを買い求め、部屋のテレビで「なでしこジャパン」の試合結果を観つつ、ススキノの眩さを思い浮かべながら札幌の夜を過ごしたのだった。(つづく)
                                                                                                                                                                           
  
Posted by hiraku at 16:25Comments(0)TrackBack(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月11日

大急ぎ 知床行 (その2)



【 第2日(日) 】

 5:24着の「急行はまなす」から南千歳駅に降り立った旅客は、10人ほどだった。もちろんほとんどが石勝線への乗換え客である。
 南千歳駅はいかにも新興地の駅という造りで風情などないが、窓から見える周囲が閑散としていて、雨の朝の興ざめな雰囲気を助長している。
 次の乗車が7:33なので、待ち合わせの時間が2時間余りある。それまで朝飯をと辺りを探すが、この時間では当然売店は開いていない。駅前にコンビニがある様子もない。仕方なく改札を出てすぐ前の自動販売機からチョコの入ったパンと野菜ジュースの紙パックを買い求めて、それを朝飯にする。
 
 定刻に「特急スーパーあおぞら1号」釧路行きが入線してくる。一見かっこいい車両だが、近づいてみるとどこかしらチープな雰囲気がある。車両を軽量化しているためだろうか。
 海峡線と函館本線、それに室蘭本線と、熟睡できなかったツケが来て、なんと帯広あたりまでウトウトし通しだった。楽しみにしていた狩勝峠の風景も見損なった。ただ、意識朦朧としたなかで、ディーゼル・エンジンが一段と大きな音を上げるのを聴いていた。
 こうしてあっけなく北海道を横断し、定刻の10:51に少し遅れて列車は釧路駅に着いた。
 ここからがまた忙しい。10:56釧路発の「くしろ湿原ノロッコ2号」に乗車しなければならないのである。釧路で下車した旅客たちが先を競ってノロッコ号の乗り場に急ぐ。数日前に山形で指定券を購入したのだったが、そのとき、湿原側のシートの指定席はほとんどが埋まっている状態だった。実際にも車内は満席で、家族連れや高齢者の団体客でごった返していた。これは完全な観光列車の趣。バスガイドのように流暢な女声による車窓の解説が流れる。




 その案内で、キタキツネがいるというのでカメラを向けたのがこの写真。背後に写っている車の人間が餌付けをしているようだ。自己満足のための餌付けなどすべきではない。
 
 「ノロッコ号」とは上手い名をつけたものだと感心するが、その名に相応しいほど遅いスピードになるわけではなかった。釧路湿原駅から先、もっとノロノロ運転にすることはできないものだろうか。もっとも、団体客の観光バスのコースの一部として組み込むには、この程度の乗車時間(40分ほど)が適当だということかもしれない。
 湿原を流れる釧路川は、台風の影響による増水で濁っていた。曇り空でもあり、とうてい美しい風景という印象ではない。しかし、じぶんは予めこんな風景を想像していた。いや、というよりもそのように自分が醒めた感受をするであろうことを想像していた。じぶんは、すでに北海道には広大で美しい自然がある・・・そんな幻想から見放されているのである。“ロマンのある北海道”というのは、10代のじぶんが、1970年代の北海道に描いていた幻想だった。そこからずいぶんと遠くに来ているのだ。





 ノロッコ2号は、塘路という駅で釧路に折り返しになる。
 塘路駅に11:40に着くと、乗客の多くは駅前に迎えに来ていた観光バスに乗り込んでいった。塘路駅の前の芝生には木製の展望台があり、その上からノロッコ号とその向こうに拡がる釧路湿原を撮ったのがこの写真である。










 じぶんは次の網走行きが来るまでの間、塘路湖の方向に歩き出し、標茶町の郷土館を訪ねた。この郷土館の建物は、明治18年に設置された釧路集治監の本監として建てられたものだという。
 シマフクロウやオオワシ、オジロワシなどの剥製を初めとした野生生物の標本と、民具やアイヌの民具などが展示されている。なかでも集治監の歴史を展示・解説した一室が興味深かった。
 集治監とは、いわゆる刑務所だが、北海道の開拓に不可欠な役割を果たした。集治監に収監され強制的に労働させられた者たちの犠牲の上に、今の北海道は成立している。初期の集治監には、犯罪者のほかに、明治維新以後に叛乱を起こしたいわゆる不平士族たちも送られていたという。今で言えば政治犯たちである。
 かれらはその能力や技術に応じた仕事を与えられ、自らの手で集治監の施設を作り、自給自足のための農地の開拓と生産を担った。集治監は農業試験場的な役割も果たし、ここで開発された栽培技術が開拓民に普及されていったという。






 「博物館 網走監獄」のパンフレットによれば、釧路集治監の網走分監(後の網走監獄)には、明治24年(1891年)に1,200名が収監され、網走から北見峠下までの163キロの北海道中央道路の建設を僅か8ヶ月で完成させるよう命令が下され、昼夜の突貫工事による過重労働と劣悪な環境により、211名が命を落としたという。
 標茶町は集治監により発展し、集治監の廃止により衰退する。釧路湿原の中の小さな駅で下車したことで、思いがけず、今は完全に観光地化され隠された北海道の裏の顔を垣間見た気がした。(写真は、120年前の釧路集治監時代から変わっていないという階段。)

 塘路駅まえのベンチでそこにある売店のソフトクリームと山形から持参したカロリーメイト、それに目の前の水飲み場の水で昼食をとり、13:54塘路発の釧網本線で知床斜里に向かう。ノロッコ号の走る区間より、こちら普通列車の走る塘路から知床斜里までの区間の方が湿原らしい眺めが広がっていた。
 知床斜里駅着は16:28。これまたせわしなく、駅前の斜里バスターミナルから16:40発のバスでウトロ温泉に向かった。

 ウトロ温泉に向かうバスの走路(国道334号)は、朱円という地区では15キロから20キロほども一直線の道路だった。両側には、馬鈴薯と甜菜の畑が広がっている。しかし、哀しいかな、自分には車窓から眺めただけではその作物が馬鈴薯なのか甜菜なのか区別がつかない。たぶん甜菜だとは思うのだが自信がない。
 バスはバス停で停まることなく、一本道を一定の速度で走っていく。広大な畑のなかの道路の路肩にバス停の標識は見当たらないのだが、車内のテープ・アナウンスから、ほぼ同じ間隔で次の停留所の地名が呼ばれる。そのことに、なにか不思議な感覚に見舞われる。
 オホーツク海に夕陽が傾き、雨雲が途切れ始めたころ、バスはウトロ温泉バスターミナルに到着する。17:30だった。
 そこから今宵の宿である「国民宿舎・桂田」に連絡して、送迎を受ける。




 海岸に建つ「国民宿舎・桂田」では、海が見える側の部屋を予約していた。ここは、どうやら小さな地元業者に運営が任されているようだ。
 ずいぶん古くて質素な宿だが、職員の感じは悪くなかった。海を眺められる露天風呂も、チープな感じだが最果ての旅情を感じさせる雰囲気があった。ただし、のほほんと入浴していると強力なブヨが襲ってくるので、これには要注意である。
 夕食のメニューはいかにも国民宿舎という感じだったが、特徴は一人に一パイの毛ガニがつくことだった。じぶんはカニ好きというわけではないが、それなりに美味しくいただいた。
 ここで飲んだビールは、サッポロビールの「北海道限定サッポロ・クラッシック」という銘柄だった。これまでサッポロビールやエビスビールを美味いと思ったことがなかったが、この「サッポロ・クラッシック」は、ちょうどよい苦味で美味かった。北海道にいる間は、ビールといえばこれだけを飲んでいた。
 台風が接近する中、辺境の地の宿で独り夜を過ごす。それにはアルコールが欠かせないと「初孫」のパック酒を背負ってきていたのだが、食堂で飲んだ生ビール1杯と「サッポロ・クラッシック」の中瓶1本で酔いが回り、24時過ぎに入眠して翌朝まで熟睡したのだった。(つづく)


  
Posted by hiraku at 15:16Comments(0)TrackBack(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月11日

大急ぎ 知床行 (その1)





 この9月、遅まきながら夏休みを取って、JR東日本の「大人の休日倶楽部パス(東日本・北海道)」(5日間乗り放題23,000円)を利用して、2泊4日の北海道旅行をした。その行程を掲載し、旅行の印象を記しておきたい。






【 第1日(土) 】

 野暮用があって、出発は夕方とせざるを得なかった。
 小雨のぱらつく山形を17:38の仙山線で発つ。この列車、途中で何度も汽笛を鳴らすので、なにか障害物が出てきそうなのかと不安になった。2泊4日の旅行計画は、およそ18回の乗り継ぎ時間にまったく余裕の無い行程で成り立っていた。火曜日の深夜に山形に帰着し、水曜日には職場に出なければならない。野生動物か何かに衝突し、電車が停止でもしたら今日中に北海道に渡れなくなる。ということは、足掛け4日間で目的の知床半島に行って帰ってくることが不可能になる・・・。出発して早くも立ちこめたこの不安が、道中を暗示していたのだった。
 しかし、ともかくも仙山線は定刻の18:39に仙台に着き、19:22発の東北新幹線「はやて177号」に乗り換えて新青森へと向かう。その車中で、山形駅ビルの地下の揚物屋で買ったメンチカツ弁当と仙台駅で買った缶ビールの夕食。・・・食後にうとうとしているとあっという間に新青森に着いた。これが21:28だった。ここで新青森から青森まで在来線で向かい、青森22:42発の「急行はまなす」に乗り込んで津軽海峡を渉る予定だったのだが・・・。
 
 新青森駅で下車したとき、少し寝ぼけていたせいか、在来線に乗車するホームを間違えたのだ。ぞろぞろと新幹線を降りて連絡線に向かう旅客たちの群れに混じって歩いていき、確かに青森方面と記載されたホームに降り立ったところまではいい。だが、缶チューハイを飲みながら会話する、どうも北海道に渓流釣りに向かうような出で立ちの男たちに気を取られて、ホームの反対側に立ってしまったようなのである。そういえば、一瞬、このホームの両側に列車を待つ人間が立っていることに気がついて、あれ?と思ったのだったが、青森行きの時刻である21:38ころに列車が入線してきたので、ああこれだなと思って他の乗客たちに釣られてその列車に乗り込んでしまったのである。
 しかし、車窓には一向に街の灯が見えてこない。ひょっとしたら逆方向の電車に乗ったのではないかという恐ろしい疑念を抱いたのは21:55頃だった。隣に座っていた初老の男性に訊くと、やはり弘前行きの列車だった。ガーン!
 慌ててじぶんが乗り違えたことを伝え、まだ青森行きの列車はあるだろうか、あるならそれに乗るためにはどの駅で降りたらいいのだろうか、その駅にはタクシーがあるだろうか、などと矢継ぎ早に質問した。その男性は、次の浪岡で降りれば青森に引き返す列車があると教えてくれた。
 浪岡駅で降車すると駅は既に無人で、切符のチェックは今乗ってきたワンマンカーの運転手がホームに下りてしているのだった。待合室に掲示されている列車の時刻表を見ると、まだ青森に行く列車はあったが、それでは「はまなす」の発車に間に合わない。幸いにも駅前にはタクシーが2台ほど客待ちをしていた。真っ青になって、運転手に「青森駅までどれくらいかかりますか?」と問い質した。
 運転手は「6,000円くらいかな」と答えたので、「時間は?」と問い直すと、「30分くらい」と言う。時刻は既に22時を過ぎていた。「じゃあ、頼みます!」とタクシーに飛び乗るしかなかった。
 数分走ったところで、「22:42のはまなすに間に合いますよね?」と訊くと、運転手は「努力します」との答え。まぁ、そう答えるしかないだろうが、こちらとしては「大丈夫、ちゃんと間に合わせます」と言ってほしかった。(苦笑)
 タクシーは暗い道路を、それでも順調に走った。「浪岡って、市町村名でいうと、浪岡市なんでしたっけ?」そう訊くと、運転手は「合併していまは青森市になりました」と寂しそうに答えた。
 このまま行けば間に合いそうだという目処がついたあたりで、運転手は「6,000円と言いましたが、もうちょっといくみたいです」と申し訳なさそうに言った。8,000円を越えそうな勢いだったが、これはしょうがないと思っていたところ、彼はメーターの設定を操作して、料金計算の仕方を別のシステムに切り替えたようだった。
 それで、結局6,160円で青森駅の裏口に到着した。「急行はまなす」の発車まで、まだ10分以上余裕があった。彼に感謝してタクシーを降りた。



 青森発・札幌行き「急行はまなす」は定時の22:42に発車した。
 この列車にはB寝台の車両もあるが、特徴は普通の指定席料金で取れる「カーペット・シート」という座席の車両があることである。じぶんは、かろうじてこの席の指定券を手に入れていた。この車両の様子は掲載した写真のとおり。昔、青函連絡船で床に寝転がって行ったことを思い出させる。
 頭から胸の部分はカーテンで隣と仕切られ、また2階席の床が被さっているので上半身は他人から見えにくいが、寝転がると下半身は通路に露出される。だいたいの人は備え付けの毛布をかけているが、短パンで寝ている男性の毛脛が見えたり、寝返りを打った女性のぴっちりしたレギンスの下半身が目に飛び込んできたり、なかなか大衆的で味がある(笑)

 じぶんは二階席に上がる階段の脇の一階席だった。この席には、階段の下の空間を利用したコインロッカーほどの大きさの物置があるのだが、そこに山形から持参した900mlの日本酒の紙パック「初孫」とつまみとポリエチレン製のコップを置いて、そのコップで半分ほどの酒をちびりちびりとやりながら眠くなるのを待った。
 この旅では、乗り継ぎ時間に余裕が無いのとその乗り継ぎ時刻が深夜や早朝であることが多いこと、それにコンビニなどの店が手近にありそうもない土地を歩くということなどから、登山用のリュックに日本酒パックと鯖缶や「じゃがりこ」「チーザ」などのつまみを背負ってきていたのである。
 北へ向かう急行列車は、いや地中深くに向かう深夜の急行列車は、なぜかずいぶんもの悲しい音を立てて進んでいく。ポイントの切り替え部分では、車体の揺れが自分が横たわる床から背中を通じて身体全体を大きく揺り動かす。
 しかし、途中で、あのガッタンゴットンというレールの継ぎ目の音がしなくなった。青函トンネルの内部は、レールの継ぎ方が異なるのだろうか。



 7時間近い車中、うつらうつらとしたのは1~2時間だった。だが、比較的爽快に目覚めて日曜日の05:24に、雨の南千歳駅に降り立った。 (つづく)
  
Posted by hiraku at 02:07Comments(0)TrackBack(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月02日

モンテ観照記 2011 「仙台サポの中傷横断幕を鑑賞する」



 本ブログの前回書き込みのとおり、じぶんは8月最後の週末に湯沢に帰省したため、27日土曜日の「みちのくダービー」(仙台ユアスタ)に駆けつけることはできなかった。
 後日、マスコミの報道で、ゲーム終了後に仙台サポの一部が以下のようにモンテ側を中傷する行為を行い、ベガルタ仙台当局が謝罪し、これらの行為に関係したサポーターに入場禁止やボランティア従事の処分を下したことを知った。
 そこで、当該行為を行ったBACKSという仙台サポのブログhttp://backs12.exblog.jp/15353975/を覗いてみると、彼らが行った行為は以下のようなものだった。

【ここから引用】
 なお今回の件における経緯は下記のとおりです。
・新聞にも掲載されていましたが、(5/23河北新報参照)、
 一部の山形サポーターとの話の中で、
 復興支援とダービーは別に考え、煽り合い等、
 いつも通りのダービーの環境で応援を行おうと言う話がありました。
 以上を踏まえ、山形戦を盛り上げようと、我々は話し合いを行い、
 その結果、試合時に山形を煽りながらも激励するような白幕を作成し、
 山形戦の勝利後、掲示しようと考えました。白幕への文言は試合当日スタジアム付近で考え、作製を行いました。
 白幕の内容
 「りあるとーほぐ(笑)まだ名乗るの?」
 「マジでガンバレ月山山形!」
 「諦めたらそこで終わりだよ。がんばろう山形」
 「さよなら 大好きなDio」
 我々にとっては、山形サポーターとの話の経緯もあり、
 上記内容は問題ないとの認識でした。

・山形戦の試合後、白幕の掲示、
 そして「さよなら山形」のコールを2回行いました。
【ここまで引用】


 仙台に敗れた後、降格の危機をひしひしと痛感するなかで仙台サポにこれをやられたら、じぶんもたしかに嫌な想いをするだろうなと思った。
 それに、じぶんは、そしてたぶんモンテ・サポの多数派は、昨年、ベガルタ仙台が降格の危機にあったとき、彼らにぜひ残留してほしいと願っていたから、かなり哀しい想いをするだろうなとも思った。

 しかし、まぁ、これも“みちのくダービー”の長い歴史の中の一コマだろう。
 そんな観点から、この横断幕の文言を“鑑賞”してみようではないか。


① 「りあるとーほぐ(笑)まだ名乗るの?」

 これは、モンテサポの掲げる横断幕に「REAL TOHOKU」というような文言があるので、それを冷やかしたものだろう。「りあるとーほぐ(笑)」と、いわゆるズーズー弁=東北弁で表記したところがミソだ。
 しかし、これまでの歴史のなかで、東北の方言が「ズーズー弁」と言われ蔑視されてきたことを考えれば、これはこれを掲げた東北の者たちの自虐ネタということになる。天に唾することだと言ってもいい。
 これを書いた者たちは、自分たちはダサい東北弁のイメージから解放されていると思っているのだろうか。
 サントリーの佐治という会長が、首都を東北に移転すべきだという議論を聞いて「あんな熊襲の土地に首都を移すなんてとんでもない」と発言し、批判を浴びて東北の県庁をお詫び行脚したのはそんなに昔のことではない。(「熊襲」は九州の蛮族の謂いで、東北のことをいうなら「蝦夷」と言っていただかなければならないのだが、佐治氏は学がなくて「蝦夷」という蔑称さえ知らなかったのだろう。)
 仙台の人間も、西日本の人間からみれば、「とーほぐ(笑)」や熊襲なのである。わが身をよく知らなければならない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E7%86%8A%E8%A5%B2%E7%99%BA%E8%A8%80

 ところで、いま放映中のフジテレビのドラマ「全開ガール」はいいね。ヒロインの新垣結衣がいい演技をしている。山形は庄内地方の方言(それはあまり正確な庄内弁とは言えないが)でしゃべっている。「とーほぐ(笑)」は、いまや優秀で必死に生きる主人公像に欠かせないイメージなのだ。


② 「マジでガンバレ月山山形!」

 「月山山形」は、2008年から2009年のオフに、モンテディオ山形の運営母体である「社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会」の海保宣生理事長(当時)が、東北芸術工科大学デザイン工学部情報デザイン学科の中山ダイスケ教授に依頼し、同教授によって考えられた「フルモデルチェンジ構想」におけるチーム名の改名案のひとつ。
 正確には「月山形」と表記して「がっさんやまがた」と、「山」を二度読ませるのである。
 じぶんはいい案だと思ったが、モンテ・サポの多数派には不評だった。(モンテディオ山形という名称を変えるべきではないというサポが多かった。)
 モンテ・サポが誇りにしている「モンテディオ山形」を貶し、モンテ・サポに嫌な記憶を思い出させようというところだろう。
 しかし、じぶんは、仙台サポがよくこの名称を憶えていたなぁと思ってしまう。
 「月山形」(Gassan Yamagata)は、それほどに印象的な名前だということを、逆に証明しているということだろう。
 なお、「フルモデルチェンジ構想」については、過去に言及しているので、ご覧あれ。http://ch05748.kitaguni.tv/e800713.html


③ 「諦めたらそこで終わりだよ。がんばろう山形」

 いちばん毒が薄いように見えるが、この文言がいちばん性質が悪い。
 「がんばろう東北」という合言葉で大震災の被害に立ち向かっている宮城県民が沢山いるだろうに、そしてそれをマジで支援してきた山形の人間もいるだろうに、そのことに考えが及ばないのは、やはりアタマが悪すぎるといわなければならない。
「復興支援とダービーは別に考え、煽り合い等、いつも通りのダービーの環境で応援を行おう」としたのなら、大震災を想像させるこの一言だけは使ってはならなかった。


④ 「さよなら 大好きなDio」

  たしか、昨シーズン、FC東京が某大クラブ・サポの一部から、J2降格が決まったようなことを言われて問題になったのだったと思うが、その真似をしたということだろうか。
 モンテは、財政規模の小さな、したがって選手補強がままならない弱小クラブ(プロビンチア)ではある。しかし、サポーターの価値は、その支援するクラブの基盤が弱ければ弱いほど、逆に高いと思っていいだろう。
 弱いクラブをいかに支え、いかに伸ばせるかに賭け、その結果としてプロビンチアであることにいかに誇りを感じられるかというところに、サポの醍醐味がある。
  じぶんに言わせれば、強いクラブ、つまりは大スポンサーがついていたり、大都市でファンが沢山いたりして収入の多いクラブのサポーターなんて、さっぱり魅力がないし、なりたいとも思わない。順位が上のチームのサポーターが、下位のチームのサポーターより優越していると思ったらとんだ勘違いである。


 ということで、仙台サポの諸君。
 2012シーズンは、仙台と山形はリーグを異にしてしまうかもしれないが、ベガとアルタイルのようにまたいつか、J1の「みちのくダービー」で会おう。
 ベガルタ仙台のJ1定着を願っている。
                                                                                               

  
Posted by hiraku at 01:44Comments(1)TrackBack(0)

2011年08月31日

愚か者の帰省



 毎年一度は故郷に帰省するようにしている。
 親はもういないが、その街の商店街にじぶんの生家があって、兄が店を継いでいる。
 車で150分ほどの距離にある故郷に帰るのは、だが、じぶんにとっては少しばかりつらいことである。
 その湯沢という街の人々は一見恙なく暮らしているように視え、親類や知人たちはいつもじぶんを暖かく迎えてくれる。だが、じぶんがこの街を出てから時代は大きく変わり、規制緩和と農業の衰退と少子化と高齢化との抗いがたい流れのなかで、この中心街の空洞化は目を覆いたくなるほどに進んだ。
 この街から活気が失われていくゆくさまを見聞きすると、いつも堪え難い悲嘆に襲われる。その感情は、幾許かはこの街を捨てたじぶんの後ろめたさからくるものでもある。

 帰省したのは、毎年恒例の祭りである「愛宕神社祭典・湯沢大名行列」の行われる日の前日だった。http://aios.city-yuzawa.jp/kanko/event04.htm
 毎年8月の第4土曜日と日曜日に、中心街を練り歩く大名行列が執り行われる。8月の5~7日に行われる「七夕絵灯籠祭り」、そして2月に行われる「犬っこまつり」が、“湯沢三大まつり”と言われ、その華やかさやメルヘンチックな趣きが多くの見物客を集めていたのは、まだ“昭和”と言われていた時代のことだったような気がする。
 これらの祭りは現在でも受け継がれているが、その実施主体である中心商店街の空洞化と住民の減少に伴って(そしておそらくは平成の合併後の新湯沢市の取組み姿勢の変化にもよって)、その規模を縮小せざるを得なくなっている。
 振り返ってみれば、この小さな中心商店街がこれまで営々と、8月のひと月の間にお盆を挟んで「七夕絵灯籠祭り」と「大名行列」との二つの祭礼を担ってきたこと自体が少しく驚嘆すべきことでもあるのだ。・・・酒造と宝石の研磨工場くらいしか製造業のないこの小都市(旧湯沢市)が、かつては如何に豊かで賑やかな商店街を持っていたかを語っても、今の寂れた姿しか知らない者に往時を想像させることは難しい。

 この街は、城下町であり、商業都市であった。それは周辺に深い郡部をもつ地域の中心都市であったからであり、つまりかつては豊かだった稲作地帯に支えられていたからなのであった。
 そのことを逆に言うと、この地域は“豊かな郷土”という幻想の上に胡坐をかいてきたために、そこからの転換が決定的に遅れた。(これは秋田県全般についても言えることである。)
 農業の面では稲作中心から園芸や畜産への転換が、そしてそれ以上に農業と商業中心の産業構造から電気・電子・機械などの製造業への転換が図られなければならなかったのである。
 なぜ、それは果たされなかったのか。その理由がじぶんには手に取るようにわかる。なぜなら、その理由であるところのこの地域の気風が、じぶんがこの土地を捨てた理由のひとつでもあるからである。

 実家に帰ってみると、兄の息子は、家の代表として大名行列の準備に追われていた。しかし、その忙しさの様子がこれまでとは異なっているのだという。
 この街では、5つの町内会が年毎に順番で祭りの当番を担ってきていた。だが、不況と商店街の空洞化による寄付金の減少や住民とくに行列を組む子どもたちの減少による出演者不足が深刻になり、ついに2つの町内会が運営からの離脱を宣言したというのである。
 これまで祭りを担ってきた町内の衆は、これらの状況を受けて大名行列の運営の根本的な改革を目指したという。
 いつから、またどんな由来によるかは不明だが、大名行列は旧市街の南端にある愛宕神社の祭典として行われてきた。神社の神輿を神主に率いられた氏子が担いで周り、大名行列も奴振りもいわば神輿行列の余興のような構成になっていた。実際には、佐竹南家の格式ある大名行列とそれに続く稚児の花車や子どもたちの引く山車の行列がメインなのだが、この祭りの開催自体が神社の所管下にあるために、祭りの運営当番の町内会は神社に毎年50万円もの寄進をしてきたのだという。それをなんとか減額しつつ、運営主体を神社と分離し、各町内持ち回りの過重な負担をなくすために「湯沢大名行列保存会」を組織しようとしたのだという。
 しかし、話し合いはうまくまとまらなかったようだ。そして、この調整に時間を要したために今年の大名行列の準備が遅延し、祭りの2日目の本番を前にして行うことが慣例になっている1日目の“笠揃え”といわれる行列の予行の実施はままならないこととなり、今年は日曜日1日限りの行列となったというのである。
 なお、兄嫁によれば、明治生まれのじぶんの父親が、生前に大名行列に関してこんなことを言っていたと言う。
 ・・・この大名行列は、湯沢の殿様(佐竹南家)が、年に一度くらいは町人も大名行列の真似をして奴振りなどで楽しんでもいいと言って始まったのだ、と。


 昔はじぶんも三度ほど行列に出た。いちばん幼いときは乳母車をもとに装飾した花車に乗った稚児で、次が小学校のとき、鷹匠の持つ鷹の餌の山鳩を模した作り物を竹竿の上に刺したものを持ってあるく下級武士か足軽風の姿。中学時代には裃(かみしも)を着た神輿警護の武士の役だったような気がする。
 行列を組んで歩く子どもたちには親や使用人などの付添人がついて、炎天下を歩く子どもを団扇で扇いだり、行く先々の店や個人宅から差し出されるノートや鉛筆など学用品の祝い物を子どもに代わって受け取り、それらでいっぱいになった袋を抱えて一緒に歩いていたものである。祝いの品は、親戚や町内の家々から自宅にも届けられた。じぶんが幼かったころには、学用品やジュースやカルピスの詰め合わせが、仏壇の前に山のようになった記憶がある。

 大名行列には殿様役の子どもが2人選ばれて、それぞれが立派な紋付姿で騎乗し、付き人に引かれて行進していた。
 息子たちの思い出にと殿様役に応募しようかと考えたことがあった。殿様になるには、馬の借上げ費用や遠方からの運送費用、それに祭り当日だけでも付き人たち延べ10人分の謝礼や飲食の振舞い費用、祭りへの寄進やら何やらで、乗馬の練習期間も含めて1騎あたり150万円は必要になるはずだと言ったら、女房が目を剥いて反対したので話は立ち消えになったが、いまや殿様役は1人に減って、その費用負担は300万円になっているのだという。
 その殿様役を、すでに中心商店街の家々から出すことは叶わなくなっており、今年は、平成の大合併で同じ湯沢市となった旧稲川町の「稲庭うどん」の製造元のある名家が担うということだった。
 この故郷を捨てて久しいじぶんには、いまやこの祭りについて口を挟む資格はない。だから甥に祭りのあり方をめぐる改革の試みとその不調の経緯を詳しく聴き質すことはしなかった。



 話は前後するが、今回の帰省の目的は、墓参りがてらいつものように高校時代の友人たちと盃を交わすためでもあった。
 とくに気になっていたのは、「薄情者の大阪行」で触れた、腎臓の進行がんで闘病中の友人のことだった。昨年の夏に彼の家に顔を出して、なんとか自宅で日常生活を送っている様子を見、それから1~2度、携帯メールの交換をしていたのだったが、3月の大震災があって、その後じぶんが仕事に忙殺されてしまってから、その忙しさが一段落しても連絡を取っていなかったのである。
 気になりながらもなぜ連絡を取っていなかったかといえば、こちらから連絡を取るということはすなわち彼に“まだ生きているか”と問うことに他ならず、そのように問うことの前にじぶんが尻込みしていたというのがほんとうのところなのである。
 お前はまだ生きているか・・・そう問うことにどんな意味があるのか。それは彼のためではなくじぶんの後ろめたさを誤魔化すためではないか・・・。そんな逡巡のなかでこの半年を過ごしてきた。
 だが、幸いなことに、別の友人にまた飲もうと連絡をとったら、その友人がじぶんの気持ちを察して当の友人に電話を入れてくれた。すると、その進行がんの友人も宴席に顔を出すというのだった。
 こうして、また高校時代の友人たちと4人で飲んだ。宴席に4人そろうのは18ヶ月ぶりだった。

 腎臓がんの友人は、気づいたときはすでに手遅れの状態で、原発巣は切除したが、いまや肺や骨にたくさんの転移があるのだった。
 だが、ネクサバールという抗がん剤が効いているのか、転移したがんの増殖スピードは押さえられており、痛みや副作用の症状に襲われながらも、痛み止めのパッチをして自宅生活を続けることができている。
 彼が言うには、ネクサバールがこんなに長く奏効しているのは、日本では自分の症例くらいのものだろうということだった。
 けれどもこのときの彼の様子は比較的良好で、顔色もよかった。思ったより痩せ具合はすくなく、頭髪も復活していた。
 彼は刺身には手をつけなかったが、旬の焼き秋刀魚の片側を平らげていた。

 農業をやっている別の友人は、今年はじめの大雪で、さくらんぼの雨よけハウスとリンゴに甚大な被害が出たと頭を抱えていた。とくにリンゴは、あまりの大雪に枝の除雪がままならず、枝が折れたり幹が裂けたりして深刻な状態になり、高齢者で後継者のいない農家ではリンゴ栽培を諦めるという者も出ているという。
 彼の家も、さくらんぼの雨よけハウスの鉄パイプに貼り付いた雪で骨組みが潰れそうになり、その雪を払うのに精一杯で、リンゴの木をその丈がすっぽりと雪に埋もれた状態から掘り出して救うところまでは、体力の限界でとてもできなかったと言うのだった。
 農業共済の補償金は出るのかと訪ねると、雪害では対象にならないのだという。
 さくらんぼも全て護りきれた訳ではなく、しかも山形が豊作だったのに湯沢では雪害の影響もあって、今年は出来が悪かったという。彼は、損害の大きさに、いったんはお先真っ暗でどうしたらいいかわからなくなったというが、“もともとアタマが莫迦なもんだからクヨクヨ考えない”と苦笑しつつ、なんとか日々の蔬菜類の出荷で立ち直ろうとしている、と語った。

 がんの友人を見送ってから3人で二次会に行き、店を出たのは午前2時を過ぎていた。4時間近くも何を話していたのか覚えていない。そのスナックのママさんが、国の災害対応のまずさを批判したので、「政府への批判はもっともだが、皆が国の仕事だと思っていることの大方は県や市町村が担当している。県や市町村が機能停止すれば、行政サービス提供の実施機関としての国なんて、そもそもが無いに等しいのさ・・・」酔っ払って、そんなことを偉そうに語ったような気がする。相変わらず愚か者だ・・・(--;
 女性にズケズケ歳を訊くのは失礼だと思ったが、帰り際にそれでもまっすぐ歳を訊いたら、64歳だとの答え。男気のある魅力的な人だった。秋田の女はやっぱりいい・・・。

 こんなに飲んだのは何年ぶりだろう。莫迦さ加減が、まるで、酔い越し金はもたねぇ~とばかりに飲み歩いた20~30代のころのようだった。
 だが、身体は確実に歳相応だと思い知る。痛飲のダメージから開放されるのに2日もかかったのだった。                                                                                                                                                                        





  
Posted by hiraku at 01:50Comments(0)TrackBack(0)歩く、歩く、歩く、

2011年08月28日

モンテ観照記 2011  「われわれは堪える」



 残り試合数が刻々と減少していくなか、モンテディオ山形はなかなか上昇機運に乗り切れない。第23節の清水戦を終えたところで、勝ち点16で降格圏の17位。すぐ上の順位のチームとの得点差を縮めることができないでいる。
 
 第21節から第23節までの試合に触れておきたい。
 まず、第21節の8月13日(土)、甲府を迎えたホームゲームで、モンテは久しぶりの勝利を収めた。
 この試合の前半、甲府は、ハーフナーマイクやダヴィらのFWやMFがモンテの守備ラインから一斉にディフェンスの裏へタイミングの絶妙な飛び出しを見せ、たびたびモンテのゴールを脅かした。
 モンテ守備陣は最初のうちはよく対応していたが、メインスタンドから見ていると、甲府攻撃陣の飛び出しの鮮やかさに「あ~、これでは点を奪われるのも時間の問題だ・・・」と思わされた。
 前半はなんとか無失点で折り返したものの、後半はゴール前での対応力が低下。心配していたことが現実になった。
 しかし、1点を先取されたモンテは、今までとは違っていた。これまでは先制されると巻き返す力が出なかったが、この試合ではすぐに追いつき、さらには今季広島から中途移籍(レンタル)したFW山崎がついに覚醒(!)して2得点をあげ、3対1でホームでの久々の勝利をあげた。
 先制されても諦めない粘り強さと山崎の活躍が、希望の灯りを点したのだった。

 希望を抱きながら乗り込んだ第22節、アウェイの大宮戦。(8月20日)
 昨年もそうだったが、降格圏のボーダーラインにいる大宮との対戦は、今季も残留を左右するかなり重要な一戦のはずだった。
 ビジター自由席から眺め降ろすサッカー専用のNACK5スタジアム大宮のピッチは、美しい薄緑色に浮き上がっていた。
 生憎の雨と今季の低迷からか、モンテのサポーターは昨年より少なかったが、山形に駆けつける大宮サポの数を遥かに上回る山形サポが、今年も大宮に駆けつけた。山形サポの数は1,500~2,000人くらいかと思われる。
 NSBFを標榜するじぶんは、アウェイゲームを観戦するとき、サポーターと少し距離を置くためにビジター自由席の端に座る。このときも最上段の一角に陣取って、まさに“高見の見物”を決め込もうとした。
 ゲームの方は、モンテのパッとした展開がないまま、押し込まれながらも前半を無失点で終え、「これがモンテのペースだ」と期待して後半を迎えたのだったが、大宮のFW石原が交代出場すると、その石原にあっという間にゴールを奪われてしまう。
 じつは、去年もこうだった。石川のFKでやっと追いついたと思ったら、途中出場したばかりの石原に勝ち越しのゴールを決められて1対2で敗北したのだったから、またあのパターンで負けるのか…とイヤ~な感じがした。去年の大宮は、リードした途端に 全員の動きが活発になり、モンテは反撃らしい反撃をさせてもらえないまま終わったのだった。
 しかし、今年はその再現だけは避けられた。モンテは、太田がゴール前のこぼれ球に反応してすぐに点を取り返した。
 この辺りからわれわれ“高見の見物派”も黙って見てはいられなくなり、雨具姿で立ち上って、いつのまにかサポーターとともにチャントを口にしていた。
 ここで勝ちきるかどうかが、残留をめぐる大きな分かれ道になる極めて重要なゲームだったのである。
 結果は1対1の引き分け。“先制されても諦めないモンテ”の姿勢は根付いてきた。しかし、残留に向けた勝ち点積み上げのうえでは、この局面における引き分けは負けに等しい。残された今季のゲーム数の少なさが重くのしかかってくる。大宮サポに囲まれながら氷川神社参道を歩く駅までの真っ暗な帰路は、来た時よりも遥かに長く感じられたのだった。


 
 ということで、“後が無くなった”モンテは、8月24日(水)の第23節をホームで迎える。相手は、今季アウェイで完敗を喫している清水。
 この日、じぶんは「市民応援デー」(山形市ほか対象)による割引チケットで、北バックスタンドに座った。
 平日の夜であることと天候が不安定だったことからか、観客の入りは良くない。この日は、ついに7,000人を切ってしまった。・・・ということはどういうことかと言えば、いつもと比べて子どもと子育て世代、それに若者が相対的に少なく、おっさん、おばさんが相対的に多いということである。
 こういうときに、北バックの“北バックらしさ”が現れる。たまには、こういう環境での観戦もよし、である。(^^;

 ゲームはといえば、前半はモンテが次々にミスをして、はらはらさせられる展開。
 モンテがひどい分、小野をはじめとした清水イレヴンのパス回しはなんと美しく、そのボールコントロールのテクニックはなんと高度に見えたことか・・・。
 北バックのおっさんたちからは、「モンテ、集中しろよ!」と檄が飛びはじめる。モンテのふがいなさに、その檄は「しっかりやれ!」と、イライラの野次に変わりはじめ、ひどいパスミスに、おばさんたちから自嘲気味の失笑も入る有様である。
 この前半は、よく無失点で乗り切れたものだと思わせられるほど、モンテの動きはまったくもってチグハグなものだった。
 
 しかし、後半は事情が変わる。
 後半早々、いつものように相手にCKから鮮やかなヘディングシュートを決められたところまでは、まさにいつものような負けパターンだったが、そこから今までにない状況が生まれた。
 1点先取した清水は、後衛でボールを回し始め、プレーが途切れると再開に時間かせぎのようなスローモーな動きをする。そこにモンテのサポから抗議の声が上がる。
 だが、傍目から見ていると、前半のモンテの攻撃の組み立てがひどいものだから、清水にはこのまま護りきるのかそれとも追加点を取りにいくのか、迷いが生じたように見えた。
 それに対して、モンテはボールを奪うと何度も何度も前線にボールを上げ、DFを追い抜いてGKの前に走りこもうと試みる。
そしてついにこの攻撃が成功する瞬間がやってくる。太田が走りながらのヘディングでミドルシュート!・・・それがゴールマウスに飛び込む。
 その後は、見違えるようにモンテの動きがよくなり、再三清水ゴールを脅かす。ゴール前でドリブルでGKをかわし、フリーになって決定的なチャンスにシュート!・・・ああ、だが清水のディフェンスがゴール前に走りこんで足でクリア・・・(--;
 そして終盤には、モンテのドリブル突進でファウルを誘発し、PK!・・・このとき、われわれは“残留”への希望の灯火が勢いを増して輝かんとしているのを視た・・・はずだったのだが、川島のPKは清水のGKに止められる・・・あぁ(--;、あぁ(--;、
 その後もモンテは攻め立てるが、やはりあの“決定力不足”は深刻なのだった。・・・こうして、またも引き分け。
これが残留圏にいるときのゲームなら、われわれは「今日のモンテはよくやった。おしかったなぁ・・・」と帰路に着くのだが、この状況下ではちがう。・・・あの希望の灯火の炎は、さらに弱弱しいものになっているのだった。

 しかし、しかし、われわれはまだ堪える。
 モンテはいいゲームをするようになった。
パスミスやトラップミスが多く、相手にプレッシャーをかけられると、すぐに通る当てのないロングボールを蹴るという中学生のようなプレースタイルだが、なんだか“これがモンテだ!”という悟り(?)さえもが開けてきた。
 この局面における長谷川悠の肉離れによる一次離脱が残念だが、・・・われわれはまだ“奇跡”を信じて堪えるのである。

 ・・・と、ここまで書いて、NHK-BS「Jリーグタイム」で、27日の第24節、仙台との“みちのくダービー”(ユアテックスタジアム仙台)の結果を知った。
 結果は1対2で前回対決に続いて敗北・・・。
 仙台の1点目。モンテDFのミスも絡んでいるが、仙台のFW赤嶺のトラップからシュートへの動きが素晴らしかった。
 引き続きすぐに仙台にPKを与え、2点目を決められてしまったのが悔やまれる。
 
 ・・・と、この結果を知りつつもなお、われわれはまだ“奇跡の奇跡”を信じて堪えるのである。あっは。                                                                                                                                                                               



  
Posted by hiraku at 18:45Comments(0)TrackBack(0)サッカー&モンテディオ山形

2011年08月14日

「ぴあ」の終わり <東京>の終わり



 遅ればせながら、やはり「ぴあ」終刊について書き記しておきたいと思った。
 この雑誌には、多くの人がそうであるように、特別な想いがあったからである。

 7月に上京した折、新宿東口の紀伊国屋書店でその終刊号(8月4・18日合併号)を購入した。
 若い頃、この雑誌にはほんとうに世話になったのだが、購入するのは久しぶりだった。
 終刊号の内容に僅かばかりの期待を持って紙面を追ったが、準備の時間が足りなかったのか、その内容はつまらなかった。 表紙イラストの履歴の紹介に多くのページが費やされ、さらには編集部にこれまでどんなタレントが顔を出したかなどという内向きの話題に紙面を割いている。この雑誌の歴史的・文化的意義に関するまともな言及どころか、これまでの記録さえもろくに掲載されていない。これでは消えて当然だろう。
 たぶん、今の編集者たちはこの雑誌のとんでもない存在意義をよく認識していなかったのだろう。今後、過去の関係者も含めて、誰かに腰をすえた本格的なレトロスペクティブを試みてもらわなければならない。

 この雑誌の意義はどこにあったか、それを簡潔に指摘しているのがこの号に掲載された鴻上尚史の「『ぴあ』という奇跡」(同号116頁)という短文である。

 「『ぴあ』が実現したことは、すべてを等価にすることでした。」「有名劇団から先月旗揚げしたばかりの学生劇団まで、全ての公演が有名無名関係なく、1日から月末まで、ずらりと並んでいました。観客動員や広告代金によってスペースの大きさが変わることはありませんでした。」「1ヶ月という時間の中で、あの当時、僕たちは何度も映画や演劇のページを読み返しました。そして、『ぴあ』がなければ出会わなかった作品、興味を持たなかった作品、そもそも知りえなかった作品と、沢山アクセスできたのです。」「『ぴあ』が風穴を開け、流動化させ、視野を広げた文化と人間関係は、また、深く個別に分断化していくのかと、少し、淋しく思っているのです。」

 「有名劇団から先月旗揚げしたばかりの学生劇団まで、全ての公演が有名無名関係なく、1日から月末まで、ずらりと並んで」いるある時期の「ぴあ」を読み進んで、じぶんもたしかに興奮したものだった。すべての情報は紙面上で“等価”なものとして扱われており、それらの公演のどれにアクセスするかは、すべてじぶんの探索心にのみ懸かっていたからである。
 「夢の遊眠社」も「第三えろちか」も「木馬館」(浅草)も早稲田大学の学生劇団も、「ぴあ」に掲載された“すべて等価”な活字情報と出会うことで知った。
 そういえば、これらの現代演劇や大衆演劇の情報と並んで、各地を巡業する昭和のサーカスや当時はまだまだその筋の好事家の秘め事だったエスえむショーの情報も掲載されていた。
 また、たとえば自分は、演劇の公演や文学・思想関係の講演会を探すために「ぴあ」を購入したのだったが、その雑誌に載っている別ジャンルの、たとえば美術展や映画の自主上映等の情報にも目を通すようになって、同時代の文化や表現行為の動きを総体的な<文化的情況>と認識したり、あるいは個々の表現の営為を「マスイメージ」の多様な表出形態として受け取るというような受容の仕方をしていったようにも思える。

 その等価な活字情報に開示されるところの、文化のアナーキーな多様さと奥深さ、そしてその膨大な活字情報のなかに散らばる想像力の空隙(=可能性)こそが、じぶんにとっての<東京>だった。その<東京>における文化的体験は、じぶんの想像力をひどく刺激し、じぶんと情況との関係幻想を膨らませた。じぶんが辛うじて20代を生き抜くことができたのは、この文化的体験と自己の想像力に対する(今からみれば勘違いの)幻想のおかげであり、さらにこの50代まで生きて来れたのは、ある面ではたぶん30代前半くらいまで抱いていたこの文化的・情況的な<東京>との関係幻想の余韻のおかげではないかとさえ思う。

 鴻上が言うように、一時期の「ぴあ」が、文化情報に優劣をつけずそれら全てを等価なものとして掲載してきたこと。そして、その情報の単純な羅列が、読者に視野と関係性を拡げさせる契機となっていたこと。この二つの点は、少なからぬ者が指摘する点であろう。
 しかし、じぶんの記憶では「その一時期」というのは、1972年の創刊から、たぶん1980年代の半ばくらいまでだろうと思う。
「ぴあ」が掲載情報にかんするチケット販売(「チケットぴあ」開始は1984年)に乗り出した頃から、この等価性は失われ、それととともに掲載情報の魅力は激減していった。
 このことは、過去の「ぴあ」に当たった上で言っているのではなく、ただじぶんのあやふやな記憶にのみ拠っていることを断ったうえで述べるのだが、具体的にいえば「チケットぴあ」で扱う公演の割合の増加に反比例して、チケット販売の対象とならない例えば文学や思想関係の講演会などの情報が掲載されなくなっていった。
 じぶんの記憶では、1980年代の半ばまでは、「ぴあ」に掲載された催しにアクセスしたのは、すべてそこに記載されている主催者の電話番号に問合せるという方法によってだった。当時はすでにメジャーだった唐十郎の「状況劇場」の公演も、吉本隆明や埴谷雄高の講演会も、すべてそうだった。

 「ぴあ」最終号には、鴻上尚史と並んで野田秀樹が「大往生だね、『ぴあ』」という文を寄せている。
 野田は、「『ぴあ』によって権威のある批評家や新聞だけが『何がいい文化なのか』を決めるのではなくて、『文化の情報』を与えるので、そこから自分の目で見て耳で聞いて自分で判断してくれ、という時代がやってきた」が、それがポップカルチャーに「常に『消費される』という宿命」を与えたという。
 そして、「次第に主客転倒し、良いものが新しく見つかったので情報になるのではなく、新しければ良いものだということになり情報として流される。そして古くなると捨てられる、という大文化消費時代へと移行していったように思う」と述べている。

 野田は、この文を、「ぴあ」が「この異常な『文化を食いつぶす時代』」をよく生き延びたと褒め、「『情報を売る』ということを始めた雑誌の宿命だったのかもしれない」と結んでいる。
 じぶんはここに“このように自分を自分で食いつぶして休刊することが”「ぴあ」の宿命だったのだと、野田が「ぴあ」編集部に気を使ったがゆえに(?)記載していない言葉を付け加えておきたい。

 さて、この書き込みのタイトルにあるように、じぶんにとっては、ある時期の「ぴあ」こそが<東京>そのものだった。だから、じぶんのなかの<東京>は25年ほども前に終わっていた。
 「ぴあ」の終刊に、じぶんの関係幻想としての<東京>が完全に失われ、もはや二度と戻ってこないものであることを改めて思い知らされた。
 この文の結語で野田秀樹が言うように、やはり、“さよならだけが人生だ”なのである。  あっは。                                                                                                                                  



                                                                                                               
(注)このブログのシステムでは、書き込みの中の言葉遣いにかなり制限がかけられています。
   えろとかえすえむなど管理者が認めない言葉が含まれているとサーバー登録を拒否されるので、書き換えをしています。    登録を拒否された際に、どの言葉が引っかかるのか、どのような言葉なら赦されるのか示されないため書き換えに難渋しています。悪しからずご了承ください。(高啓)                                                                                                                                                                                                                                                                                             












  
Posted by hiraku at 17:21Comments(0)TrackBack(0)作品評

2011年08月09日

2011 モンテ観照記「モンテますます危うし」



 モンテディオ山形が勝ち点を伸ばせないで苦しんでいる。
 第20節の鹿島戦に敗れたところで、勝ち点12で降格圏の17位。 
 このブログはモンテの話題からちょっと離れていたが、ゲームの観戦をサボっていたわけではない。
 7月2日(土)に新潟市のビッグスワン・スタジアムで開催された第2節の新潟戦まで遡って、モンテについて述べておきたい。

 この日の対戦は「裏天王山」と言われていた。モンテがJ1残留を決めるためには、16位にいる甲府に追いついただけではだめで、その上にいるもう1チームを引きずり降ろさなければならない。降格圏のすぐ上にいるチームで手が届くかもしれないチームはアルビレックス新潟くらいのものだった。他は、鹿島や浦和やセレッソ大阪で、これらのチームはそのうち上にいくと考えなければならない。だから、ここで新潟を引き付けておくことが残留には極めて重要なのだった。
 写真は、ゲーム開始前、スタジアムのコンコースに集合して決起集会を開催しているモンテのサポーターたちである。真剣な想いがひしひしと伝わってきた。
 じぶんは、ここで何度も自己規定しているように“NSBF”という立場を貫こうと思っているので、この集団には加わらない。客席も、限られたビジター自由席ではあるが、なるべくサポーターの中心部から離れた場所に座り、声援と野次を飛ばしながら観戦した。
 ゲーム内容はといえば、モンテはさっぱりいいところがなく0対2でホームの新潟に完敗という状態だった。

 アウェーに追っかけてきて敗けたとき(これまでFC東京・大宮・川崎・新潟とアウェーに付き合っているが、一度も勝ちにめぐり合ったためしがない)は、帰りの気分が一段と重い。そのせいで悪態をつくのだと看做して欲しいが、初めて訪れたビッグスワン・スタジアムは大きくて立派といえば立派だが、その施設の印象はいいものではなかった。野球のスタジアムが隣接し、運河が引かれていて、広大な運動公園という体裁なのだが、緑が少ないせいか、それとも施設配置や空間デザインが大雑把なせいか、どうも全体としてガランとしていてホスピタリティに欠ける。運河の水が汚いのも気になる。
 一度スタジアムに入場したらもう場外に出られないという運営も良くない。場外の出店で飲み食いしたほうが良いのか、場内の店の方が充実しているのか、その判断ができない。
 ちなみに、場外には山形で馴染みの店舗も出店していたので、じぶんは場外に置かれた椅子とテーブルでビールを引っ掛けてから入場した。しかし、考えてみれば新潟にきたのだから、新潟のソウル・フードを喰いたいものだ。
 近くのテーブルが空いたので腰掛けようとしたら、新潟のユニフォームのレプリカを着た60代の夫婦とかち合い、「呉越同舟」することになった。(じぶんがモンテのタオルマフラーを首にかけていたので、そのオヤジが「お、呉越同舟だな」と言いながら腰かけたのである。)
 この髭オヤジにちょっと話かけた。以前にモンテの監督も努めた新潟の前監督・鈴木淳(現・大宮アルディージャ監督)はなんでクビにされたんだと聞いたら、「新潟は金がないから逃げられたんだよ」と言い、「鈴木は優秀な監督だったが、その前の監督に比べて愛想が悪くて人気がなかった」と言ったので、「新潟が“金がない”なんて言ったら、モンテはどうなるんだよ。うちは金欠で外人の助っ人がまったくいない。」みたいな話を返した。
 以前モンテに在籍していたころJ2の得点王になった大島について元気でいるかと訊いたら、「大島は足が遅くてだめだ。ゴール前でノロノロしている。」と言うので、「じゃあモンテに返してくれ」と言ったら、「ダメダメ」とケチりやがった。(笑)
 ・・・とここまで書いて思い出した。新潟名物(?)のB級グルメを食べたのだった。外見はスパゲティみたいだが、よく見ると麺の色は蕎麦みたいで、食べてみるとだらんとした饂飩みたいな「イタリアン」という奇妙な麺だ。例のオヤジは「新潟で“イタリアン”と言えばこれだよ。子どものころよく食べた。」と言った。この不味い麺で育った新潟の人間にはタジタジとなってしまう。
 


 さて、この日の「裏天王山」で敗北したリベンジを遂げるべく「裏天王山の再戦」となった7月30日のホームでの新潟戦も観戦した。
 ここまで、モンテは7月6日にホームで浦和と0対0で引き分け、その後、マリノスと名古屋に0対2で敗れるも、7月24日の福岡にアウェーで2対0と快勝。長谷川悠のダイビングヘッドも出て、やや調子を取り戻しつつあった。
 この日のゲーム内容は、モンテの動きは前回の新潟戦よりは格段に良かったが、右サイドを深く抉られたたった一度の機会に上手く押し込まれて点を献上した後、攻め上がるもののいつもの決定力不足でついに得点できず、0対1でまたもや敗北。この敗北は、残留の可否という点ではかなり重い結果になり、ゲーム終了後には、サポーターからついにブーイングが沸き起こった。(モンテサポは余程のことがない限りブーイングしないのだが。)
 夏休みに入った土曜日で、やや天候に不安はあったが対戦相手が「天地人ダービー」相手の新潟であることから、昨年までなら1万3千~5千人くらいは観客があってもいいゲームだった。だが、入場者数は1万ちょっと。新潟サポが3千人くらいはいたように見えるから、モンテ側の観客は「ダービー」でも7千人程度という規模に減少していたと見なければならない。今季からホームのサポーター自由席が拡張されたことを踏まえても、大事な試合でサポーター自由席の向かって左側に空席が生じていたことが気になった。クラブ(スポーツ山形21)の更なる危機意識を喚起しておきたい。

 さて、ここで“NSBF”という立場から、モンテ及びJ1各チームのサポーターを見てきたことの感想を言えば、モンテの応援はなかなかいい。ひょっとしたら、今のJ1では、もっとも優れた応援かもしれない。
 第一に、真面目で自棄(ヤケ)にならない。第二に、J1でもっとも一生懸命チャントを繰り出している。第三に、自チームの選手を批判しない。(ちなみにじぶんはNSBFなので、モンテの選手への罵倒も繰り出しつつ観戦している。)
 とくに、ゲームの開始以前から終了後まで、ゲーム中はほとんど声が途切れることがない点、それとチャントのバリエーションが豊富な点は、他チームと格段に異なる。
 以前、たとえば仙台のサポと比べてモンテのサポの声援にはパンチ力がないというようなことをここで述べたような気がするが、J1のゲームを見続けてきて、この言い草に修正ないしは補足を加えなければならないと思うようになった。
 モンテ・サポのチャントに比較的パンチ力がないように思われるのは、モンテ・サポの声援がゲーム中ほとんど途切れることなく続けられていることと、そのチャントが“歌唱”になっていることの裏返しなのである。

 ところで、最後に、やはり残留への道が極めて険しいことについて再度述べておかなければならない。
 今季のモンテの不振は、まず、補強で田代や増田の穴を埋めることができなかった点に発しているが、とすれば今は、J1昇格1年目(このときも田代や増田が居なかった)に15位でかろうじて残留を勝ち取ったときとの違いは何なのかをもう一度振り返る必要があるだろうと思う。
 まず、小林監督の戦術の変化がある。
 2009年にはとにかく護りに重点を置いていたが、2010年は中盤から積極的に相手にプレスをかけ、攻撃の積極性を重視するようになった。
 さて、2009年には、クラブにも、それを支える地域にも「J1のモンテ」という輝かしい(というか信じられない至福の)状況をなんとか維持しようという熱気(というよりも必死さ)があった。これが“奇跡のJ1残留”を達成させたのであるが、この“初昇格効果”が2年目にも通用するわけではないことは、クラブ関係者にも、われわれファンにも見えていた。だから、2年目は1年目と同じ戦い方では勝ち抜けないという認識のもとで、小林監督は田代や増田の起用を梃子として“攻撃的なモンテ”を目指した。これは正解だった。
 だが今季、田代や増田に鹿島に帰られ、外人で唯一使い物になりそうだったウーゴは大震災の影響か一度も出場しないまま消え去った。シリーズのスタート時点において、これに代わるべき長谷川・大久保などの活躍がえられず、しかものびしろを期待した若手が上滑りするままに、ずるずるとゲームが消化されていった。勝ち点を重ねることができていないため、気づいたときはすでに“攻撃的なモンテ”から“護りのモンテ”に転換する機会を失っていた。ようするに、得点力欠乏症が明らかになった時点で、護りに徹する勝ち点の余裕がなくなっていたのである。ここに、対戦相手がモンテを舐めてくれていたために、スタート時点で勝ち点を重ねられた2009年との大きな違いがある。
 
 しかし、このことをもって小林監督の戦術・戦略が失敗したのだと指摘するつもりはない。
 負けが続く今季のゲームだが、だらしない負け方の試合はそんなに多くない。モンテの皆はよくやっている。ただ、技術力で(そしてたぶん持久力でも)、個人対個人では明らかに相手との格差があるのである。問題は、その技術的(さらには体力的)な劣勢を、モンテの選手たちがイマイチ認識していないように思われることだ。相手と同じパスでは、味方には通らない、相手より早く動かないとマイボールを保持できない・・・。
 そして、あとは抜け目なく少ないチャンスを得点に結びつけるタレントがいない“だけ”なのである。
 だから、今季のモンテは、まずはこれまでの戦い方を突き詰めていくほかない。大久保はゴールを決められなくていいからポスト・プレーに徹し、秋葉はミドルシュートを枠内に確実に打ち、石川はフリーキックをコーナーに集めること。サイドのMFらは中途半端に自分で切り込まず、サイドを抉ってできる限りマイナスのボールをFWに上げること。長谷川はそれをダイビングヘッドで枠内に打ち込むこと。そして、太田や川島や伊藤や古橋や宮崎や佐藤健や船山は、いつでもこぼれ玉を狙っていることだ。
 もちろん、それ以前に、マイボールのスローインを相手に奪われないように複数のプレーヤーが自らボールをもらいに行くこと、ロングボールについてはトラップ・ミスしないこと・・・この基礎をまずは徹底してほしいのだが。

 さらには、上記と同時にクラブとしては次の課題に対応することが必要だ。
 それは、今季でJ2に降格した場合どうやって次のJ1復帰を成し遂げるか戦略を構築し、いまからそのための布石を打つことである。それはとりもなおさず、J2に降格した際に、地域住民のクラブへの支持を如何にして維持・拡大するか、その方策を示すことに他ならない。
 じぶんとしては、8月と9月のゲームで降格圏を脱出できなかった場合、10月以降のゲームで大胆に地域住民を動員する手立てを講じることを提案したい。たとえば、入場料をすべて1人1,000円にする。あるいは、11月19日の福岡戦については、バックスタンドとホーム側サポーター自由席を全て無料にするなどである。これまでスタジアムに足を運んでいない住民、たまには観戦するがサポーターやファンとまではなっていない層の住民、そして中学生や高校生。そういう観客をまずは動員し、かれらにあの会場で「月山の雪~」の合唱を聴かせ、あわよくば歌わせることが“J1復帰”への階梯となるだろう。

 さて、8月13日、次節は甲府をホームで迎え撃つ。
 勝っても勝てなくても、われわれは“モンテという快楽”とともにある。その快楽を味わいに、天童のスタジアムに繰り出そうではないか。                                                                                                       


  
Posted by hiraku at 00:41Comments(0)TrackBack(0)サッカー&モンテディオ山形

2011年06月26日

小熊英二著『1968』について



 <はじめに>

 2年ほど前の夏休み、息子の高校時代の友人である大学生が我が家にやってきた。
 かれはこのブログを読んでいて、“あの時代”についてじぶんに話を聴きたいと言うのである。
 酒を酌み交わしながらいくつか話をしたが、そのとき、「全共闘運動」については、うまく話すことができなかった。
 それで、「小熊英二の『1968』という本が出たね。あれを読んでみたらどうだろう。そのうちおれも読んでおくから。」などと話してお茶を濁したが、それからずいぶん時間が経過した。
 かれはもう社会人になっているからこのブログも卒業しているだろうが、なんだか宿題を仕残しているような想いがずっとしていたので、このことについてなにかかにかは述べておこうと思う。



 この著作は「1968年」に象徴される“あの時代”、全共闘運動から連合赤軍にいたる若者たちの叛乱を全体的に扱った「研究書」(著者が言うには「初」の研究書)である。
 上下巻で本文だけでも1,800ページを越える大著だが、工夫された構成と筆力、それに「研究書」の枠を越えた著者・小熊英二の「全共闘世代」への想いに、ついつい読了させられる。

 じぶんは1970年に中学生になった。小熊英二はじぶんより5歳ほど年下であるから、1969年には、じぶんは小学6年生で、小熊は1年生だったことになる。それはちょうど日本におけるベビーブーム世代である「団塊の世代」つまりは「全共闘世代」の中心部分からみて、10歳年下と15歳年下ということである。
 すると連合赤軍浅間山荘事件の1972年2月には、じぶんは中学3年生で、小熊は小学4年生・・・この著書のなかでも述べられているが、1960年代後半から70年代前半の日本社会は急速かつ激しく変化しており、とりわけ、若者の文化、風俗、思考、感性は、学年がひとつ違うだけで大きく異なる時代だった。だから、この5歳の年齢差は、“あの時代”のくぐり方において、たぶん決定的な違いをもたらしているのだろう。
 もっとも、初手からはっきり言明してしまえば、この「研究書」で結論付けられている“あの時代”の叛乱の意味、それをじぶんなりに一言でいえば、日本が高度資本主義すなわち大衆消費社会に移行する過程において、一部の若者が時代との摩擦や抵抗感を乗り越えるために引き起こしたカタルシス現象というミもフタもない話になってしまうが、それについて、今のじぶんはほとんど賛同する。
 そして「研究書」であるこの大著に、通奏低音のように流れている「全共闘世代」(とくに“全共闘運動以後”の当該世代)に対する冷ややかな呪詛の念についても、ほとんど共感する。

 けれどもなお、多くの点で相槌を打ってしまうこの書について、じぶんの位置からは、なお“ちょっと待てよ”という想いを禁じえない点も、これまた存在する。
 こうして考えてみると、じぶんは「全共闘世代」から10年近くも遅れて来ているのに、まるで「全共闘世代」とその世代を冷ややかに視ている「そのあとの世代」とに挟まれ、その双方の引力圏に囚われた一種のダブルバインドの世代だと思われてくる。
 これについては、じぶんが、高度経済成長の影響が数年遅れて波及した東北の田舎町で育ったという事情も多分に影響しているが、しかしなお、それだけでもないような気がする。
 だから、小熊英二著『1968』に言及するとき、じぶんはたんに「全共闘世代」を相手にするだけではなくて、「そのあとの世代」をも相手にしなくてはならないような気がしてくる。
 いや、むしろ、“相手にしなくてはならない”というよりも“相手にすることになってしまう”というべきだが、それにしたって、いまのじぶんにとって、これは少しく気の重いことなのである。
 上手く述べられる自信はないが、何かを述べておかなくては先へ進めないという想いに駆られる。小熊英二著『1968』の内容のうち、じぶんが共感しつつ、しかしまた同時にちょっと違うように感じたことについて、とりあえず二点だけ言及しておきたい。


1 「近代的不幸」と「現代的不幸」との重層性

 小熊英二の『1968』には、“あの時代”を解き明かすためのキーワードがいくつか埋め込まれている。そのひとつが、「現代的不幸」ということばである。
 同書の最終章である「結論」部には、次のようなことが述べられている。

 発展途上国型の社会から高度成長によって急速に高度資本主義の先進国型社会に日本が変貌しつつあったなかで、かの世代は「アイデンティティ・クライシスとリアリティの希薄化に悩み、『生きている』実感を持て」なかった。戦後の復興期に、野山や空き地を駆け回って育ったこの世代が直面したのは、高度経済成長の過程で引き起こされていた都市と農村の姿の急激な変貌であり、「資本主義体制」の高度化と「管理社会」の形成だったからである。
 そして、ベビーブーマーは「親世代が直面した貧困・飢餓・戦争などのわかりやすい『近代的不幸』とは異なる、言語化しにくい(そして最後まで彼らが言語化できなかった)『現代的不幸』に直面した初の世代」となった。
 そんな世代にとって、「学生運動に飛びこみ、機動隊と衝突し、バリケード内で友と語りあうことは、連帯感や仲間を得ることと、自分のアイデンティティや生のリアリティを確認できることの両面で、大きな魅力」だった。

 また、このことと相即的に語られるのは、大学生の大衆化である。
 1963年には大学進学率が15%を越え、ベビーブーム世代が入学すると大学生が急増した。大学は施設整備も教員体制の整備も追いつかずマスプロ化し、一方で学費値上げがたびたび行われた。大学生はかつてのような「立身出世」を約束された存在ではなくなり、「末はしがないサラリーマン」という閉塞感が広がっていた。
 その一方で、当時の大学生は、戦後教育で受けた民主主義の理念と、“大学は真理探究の場”であるという旧来のイメージを抱いていた。この大学の実態と学生の想いのギャップが、大学闘争の発火を準備していた。
 小熊は、この事情について、歴史学がいう「モラル・エコノミー」という考え方を当てはめて語ってもいる。
 モラル・エコノミーとは、民衆がもつ秩序意識や規範意識のことで、暴動や叛乱は民衆の生活苦が極まった際に起こるよりも、社会が変動する過程にあって、民衆がもっている「あるべき秩序」の規範意識が破壊されたときに起こるものだという考え方である。
 この考え方を応用すれば、全共闘運動とは、ベビーブーム世代の「あるべき社会像」「あるべき大学像」というモラル・エコノミーを、現状の社会と大学が裏切っていると看做されたたための蜂起だと考えることができるというわけである。

 こうした「自分探し」のモチベーションが、政治闘争に向かうことになった理由については、ベトナム戦争や日米安保条約や公害等々の社会問題が起こっていたこと、さらには「地域コミュニティの連帯感が生きており、社会との一体感が埋め込まれていた」ことを挙げつつ、階級格差や貧困の方が大きな問題だった発展途上国型のパラダイム(社会変革が自己変革と同置されたパラダイム)と言説のなかで「『心』やアイデンティティの問題を考えるとすれば、どうしても『政治』の言葉で運動を起こすという形態しかなかったのだろうと思われる」と語る。
 また、かれらが主に直接行動に訴えたり、デモでスクラムを組むことを好んで行ったことの要因としては、かれらの幼少期には「相撲や押しくらまんじゅうなど、肉体的接触を伴う」遊びが行われていたり、家族が同じ部屋で寝起きしていたことからくる「身体感覚」を指摘してもいる。(じぶんなら、このことに、子ども時代の経験としていわゆる「ギャングエイジ」の行動様式を付け加える。)
 さらに、かの世代がマルクス主義に染まったことについては、このように言及される。
 発展途上国型の社会の変革に対応したパラダイムであるマルクス主義(の暴力革命論)を唱えた新左翼運動は、60年安保以降、経済成長の過程で支持を失い低迷していたが、いわゆる「疎外論」と「主体性」を掲げる人間主義的なマルクス主義が、「『心』の問題をあつかう言説資源が不足していた当時にあって、『疎外』をはじめとした『心』の問題を表現する媒体として復権した」のであると。


 さて、ここからはじぶんの見方を述べてみる。
 小熊の論では、「近代的不幸」と「現代的不幸」とが対比され、全共闘世代は層として後者を体験した日本初の世代だとされる。・・・まずここまでは了解する。
 しかし、「近代的不幸」と「現代的不幸」は、「1968」を挟んでそれほど裁然と区画できるものではないだろう。そもそも高度経済成長の影響(または恩恵)が、日本全域と各社会階層に、期を同じくして及んでいたわけではない。
 もちろん、小熊自身もこの二つを裁然と区画しているわけではなく、日大闘争について扱った部分では、日大闘争が日大経営陣の独裁的で暴力的な学内支配に対する抗議として、つまり「近代的不幸」と言ったほうがいいような状況に対する改善要求として始まったという趣旨のことを述べている。
 また、この著作には、当時の新左翼各党派の活動家の出身階層に関する調査報告が引用されているほか、全共闘運動に関わった学生たちが、幼少期の貧しい記憶を保持しつつ、経済難で進学できなかった同級生たちに対して罪悪感を抱いていたという記述もある。
 
 そのことを踏まえながら、それでもじぶんは、より強調して「近代的不幸」と「現代的不幸」との重層性を指摘しておきたい。
 高度経済成長による影響には、地域によって、また社会階層によって、もっとグラデーションがあった。時代は跛行的に進んでおり、自我意識の変化もまたそうだったのである。
 “あの時代”の叛乱を大雑把に把握しようとするときには、「『自我の世代』の自己確認運動」と呼んでもいいが、下層あるいは庶民層出身の学生たち、またはそれらの層の同級生たちと思春期までを共有した学生たち(とりわけ地方出身の学生たち)には、社会変革あるいは社会改良によって、「近代的不幸」をなんとかしなければならないという使命感というか、衝迫観念というか、そんな意識が、程度の差はあるにせよ個々人に埋め込まれていた。このことを『1968』はやや過少評価しているように思われる。
 これは冒頭に述べたように、じぶんとこの著者との5歳の年齢の開き、それに育った地域が異なることによる体験と認識の違いからくるものだろう。
 それは、たとえば天皇制と反天皇制をめぐる事情が、この大著の、少なくとも本文では一度もまともに考察されていないことに象徴的に現れている。みんなはもう忘れたような顔をしているが、「昭和」という時代には<天皇>という存在がいて、それは旧来社会の支配体制の<象徴>であった。つまり、あの時代には、まだそこかしこに“小天皇”が存在し、各領域に前近代的な社会関係が少なからず残存したのである。

 インテリ層が社会変革への意識をもつことを、文学の世界では長らく“知の自然過程”だと看做してきた。発展途上型の社会においては、<知>を身につけた者、つまりそれゆえに社会階層を上昇できる者は、被抑圧者の側に立って、その抑圧と闘うことが“自然”だった。1960年代から70年代半ばにかけての日本にも、まだその自然過程の残り火があった。
 もっとも、この自然過程というやつには、二つの側面がある。一つは倫理的な使命感であるが、もう一つは欲望、すなわち<自己権力>への意志である。小熊は、この二つ目の側面を等閑に付している。これが、じぶんが『1968』について言及しておきたいと思った二つ目の点である連合赤軍事件の位置づけへの異議にも繋がってくる。


2 全共闘世代の「二段階転向」論への評価と異議

 ちょっと違うなと感じたことの二つめは、小熊の言う「二段階転向論」に関連している。
 小熊は、ベビーブーム世代は「高度成長と大衆消費社会の果実への反発と魅惑のはざまで、引き裂かれていた」ために、「彼らが大衆消費社会に適応するには、自己の内部にあるそれに対抗する感性を排除する必要があった」として、その過程は二段階を経ることになったと言う。
 高度成長期以前に社会状態で幼少期の人格形成を行ったことと、「一人の一歩よりみんなの一歩」「我利我利亡者にはなるな」といった戦後の民主主義教育の価値観を身につけていた彼らは、全共闘運動の中で日本共産党=民青や進歩的とされた大学教員たちと対立する過程で、「戦後民主主義」を激しく批判し、革新政党や「進歩的文化人」(進歩的知識人)の欺瞞を暴きたてることで、自らの内部にあった戦後教育の理念を排除する。これが転向の第一段階である。
 だが、全共闘運動は「ではきみはどうするんだ!」という自己否定と倫理的なリゴリズムをともなうものであったため、大衆消費社会に反発する禁欲主義となって現象する。
 「この禁欲主義とリゴリズムを脱却するために必要だったのが、連合赤軍事件だった。連合赤軍事件の実態は、アジトの発覚を恐れた20人前後の非合法集団の幹部たちが、下部メンバーの逃亡や反乱を恐れて緊縛し死なせていたという小事件である。にもかかわらず、あの事件が戦後日本の歴史を語るうえで欠かせないものとなっているのは、この小さな事件に、叛乱する若者たちが過剰な意味づけを行ったからだった。」
 その意味付けは「全共闘や新左翼のリゴリズムや禁欲主義を徹底してゆけば、行きつく先は連合赤軍事件だ、というものだった。彼らはこうして、連合赤軍事件によってトラウマをあたえられるという形態をとって、自己の内部にあったリゴリズムや禁欲主義を排除し、『私』の欲望に忠実になることに成功した。」・・・これが転向の第二段階である
 そして、“あの時代”について、小熊は、「全共闘運動と連合赤軍事件がベビーブーム世代にとって大きなトラウマになって残っていることは、ある社会が発展途上国から先進国になる過程において、どれほどの精神的葛藤と代価を払わねばならなかったかを示している」としつつも、「全共闘運動や新左翼運動は、資本主義と高度成長に反発しながら、結果として日本の資本主義の進展を推し進める役割を果たした」と結論付ける。

 じぶんは、この総括の論理展開をそれなりにうまく構成されたものだと評価し、その結論については基本的に賛同する。
 なぜなら、ここに小熊ら「そのあとの世代」の、全共闘世代に対する率直な見方が表現されており、じぶんも大方はその心性を共有するからだ。
 全共闘世代が「転向」し、各分野で日本資本主義の高度化と大衆消費社会の進展を担ってきたことをじぶんも「遅れてきた世代」として目の当たりにしてきた。さら言えば、じぶんもまた同じように、アドレッセンスまでの自分のトラウマを脇において消費社会における生活を享受してきたからだ。(一時期まで、これはじつに快楽だった。)
 だが、そのうえであえてじぶんなりの見方を言えば、ここで述べられている「転向」の機制と連合赤軍事件の意味は、小熊の指摘するのとは少しく異なるものだと思う。

 じぶんがみるかぎり、全共闘世代の、いわゆる「転向」は、小熊の言う「二段階」の転向を必要としなかった。
 そもそも転向がどのような心的機制で起こるかといえば、それはまず自己意識と大衆の存在形態との乖離についての深刻な認知があり、それにひき続いて自己意識が大衆の存在形態から掬い取られることによって起こるのである。(ここでは「権力からの強制」という要素にはあえてふれない。)
 ありていにいえば、大衆の意識を変革して革命を起こすことを目指している自己意識が、体制的秩序のなかで生きる大衆の在りように、“ああ、こんな生き方のほうがまっとうなんだ”と浸潤されるということだ。この機制は、それ自体としては、自己の内部のリゴリズムや禁欲主義を排除するのに、連合赤軍事件を梃子にすることを必ずしも(というかほとんど)必要としない。
 また、彼らの「転向」を、小熊はもっぱら自らの内部の「禁欲主義の排除」と視ているが、彼らの「転向」には、逆に“欲望を捨てる”という諦念の側面があったように思われる。ここでいう「欲望」とは、むろん物質的消費への欲望ではない。あの<自己権力>の希求である。

 ひょっとして、じぶんがここで想定している全共闘世代の「転向」者と、小熊が想定している「転向」者は微妙に異なるのかもしれない。
 小熊はいわゆる「就職転向」者(大学4年生になったら運動から足を洗って就職する“いちご白書をもう一度”派とでもいうべき者たち)をも含めて論じているようだが、じぶんはその者が就職したかどうかに関わらず、もうすこし運動に深入りした人間を想定している。連合赤軍事件を深刻なトラウマとして捉える者たちは、内ゲバを含む全共闘運動やセクトの暗黒面(たとえば兵頭正俊の小説『全共闘記』に描かれた世界のような)を経験した者たちでもあるだろうと考えるからである。
ここで<自己権力>という欲望とその断念についてちゃんと述べなければならない段なのだろうが、今はその意欲が湧かない。連合赤軍事件については、先に若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍~あさま山荘への道程~』http://ch05748.kitaguni.tv/e626432.htmlについての書込みでじぶんの見方を述べているので、ここではこれ以上は勘弁してもらうことにする。


 さて、ここからはそのほかの点について。

 小熊英二の『1968』は、新左翼運動の展望のなさ、無責任性そして倫理性の欠如について徹底した指摘を行っている。新左翼思想に影響を受けている者や憧憬を抱いている者には、この部分をよく読み込むことを勧めたい。
 いまの若者には想像できないだろうが、かつてこの国には、まっとうな知力と精神をもっている若者は左翼的になるのが当たり前だった時代があった。その時代の政治闘争がこのように矮小なものとしてしか語り継がれない。いや、このように矮小なものとして語り継ぐことに、この著者は「そのあとの世代」への意義を見出しているというべきだ。じぶんはこれをも評価する。
 著者は“あの時代”の叛乱が帰結したものとそのトラウマが、日本の社会運動を大きく停滞させていると指摘している。

 また、この書のキーワードのひとつとして「1970年パラダイム」ということばが登場する。
 「1970年パラダイム」とは、「マイノリティ差別や戦争責任への注目、アジアへの経済進出への批判、天皇制の問題化、公害や障害者問題などへの着目、『管理社会』への抵抗、リブとその延長としてのフェミニズムなど」をさす。
 これらは左翼の存在意義として、それまでの“<プロレタリアート>による革命”というパラダイムが失効したために、これに置き換えられたパラダイムである。
 このパラダイムが生成してくる過程についての総体的な論及は、この書を読む価値のひとつに数えられる。

 じぶんは、この書に論理展開や総括のためのいくつかの図式化とステロタイプ化を観るが、この種の著作には明確な指摘を行うためにダイナミックな論理展開が必要だいう考え方なので、これを是認する。
 この書は“あの時代”を考えるうえで決して外せない一書になっている。
 小熊英二にはよくやってくれたと感謝したい。              
                                                  (了)           
  
Posted by hiraku at 12:03Comments(0)TrackBack(0)作品評

2011年06月16日

2011 モンテ観照記 「モンテ危うし」



 東日本大震災で中断する前3月の開幕戦・対川崎のゲームについて記述して以来、このブログでモンテの話はご無沙汰だったが、ここまでホーム開幕戦(第7節)の対セレッソ大阪戦(4月24日)、第9節の対柏戦(5月3日)、第14節の対鹿島戦(6月11日)と、ホームで3試合を観戦し、いろいろと思うところはあった。

 このちゃちでたまにしか更新されないブログを、それでも毎度チェックしてくれている読者が幾人かいるようだが、どうもそういう諸君はモンテの話に興味がないようである。(「近頃はサッカーの話ばかり書いているねぇ・・」などとつまらなそうに言われたこともある。)
 たしかに、山形に縁のある人間か余程目配りしているサッカーファンでない限り、この地味で弱体なプロビンチアに関心を持たないだろうとは思う。
 だが、モンテを観照する意味と面白さは、たしかにある。無駄な話にも耳を傾けてやろうかと、すこし余裕をもってこの系統の文章につきあっていただければ幸いである。

 ここまでJ1公式リーグ戦10試合を終え、モンテは1勝7敗2分で18位。すでに降格の危機が迫っていると言わなければならない。なぜなら、ここまでの戦いを見ていて、“勝てる相手”が想像できないからだ。
 第7節(実質第2節)のセレッソ大阪戦で引き分け、第8節のガンバ大阪戦には破れたものの、第9節の柏戦に勝利したところ(1勝2敗1分)までは、むしろまずまずの出来だった。
 その次に当たる磐田はなぜかモンテと相性がよく、大宮もホームなら勝つ可能性がある相手。その次の仙台とは燃え上がる“みちのくダービー”で、昨年はホームでは快勝していた。そして、次の甲府は、これは“勝てるはず”の相手、“勝たなければいけない”相手だったからである。
 しかし、小林監督が“勝ち越したい”と望んだこの「中位クラス」の4チームとの対戦成績は3敗1分に終わり、次の第14節のホーム・鹿島戦は、やはり相手の上手さにしてやられて完敗。第15節のアウェイ・清水戦は、例の問題レフリーに裁かれる試合で、ゴールしたPKのやり直し判定やロスタイムの如何わしいファウル認定などもあって惜敗したが、これでは、“いったいどこになら勝てるんだ!?” “ライバルはベガルタでもアルビレックスでもなく、ブラウビッツ秋田(JFL)かぁ!?・・”などと思わずにはいられない。

 ホームゲームで直近の鹿島戦を振り返りながら、勝てない原因とその対策を考えてみたい。
 このゲームでは、前半の前半分くらいまでは、中盤で攻めあういい展開だった。モンテが攻勢をかける場面も幾度かあった。
 しかし、いつもながらのことではあるが、やはりこのゲームでも、この“攻め込む時間帯”に得点ができなかった。
 モンテは、いつもだいたい前半の20分近くまでは攻め込むのだが、ここで得点ができないと20分台から30分台に相手に攻勢を許すのがパターンになっている。最近はこの時間帯の失点が目立つ。小林監督が大事だと言う“試合の入り”を上手く乗り超えても、じつはこの時間帯の方がモンテにとって“魔の時間帯”なのである。

 とくに能力の高い選手がいないモンテは、全員が緊密に連携して戦うことでしか活路を開けない。そしてそれを実践してはいるのだが、この緊張感が不意に途切れ、連携が急に乱れることがある。
 具体的に述べると、味方選手が倒れているのに相手が試合を止めないことにイラついたり、審判の不当なジャッジに抗議したり、相手が反則を犯したからホイッスルが鳴るだろうと看做したりして、ボールや相手プレイヤーの動きから集中が外れた瞬間につけ込まれている。この僅かな時間にかなりの確率で失点している。
 この種の失点が多いため、“やられた”という事実、つまり自分たちの失敗をしっかり自覚することができない。事実の帰結に納得して気持ちを切り替えるということができないから、憤懣を抱いたまま次のプレーに移り、反撃の攻勢も雑なものになってしまう。
 こういうときには、大きな声を張り上げてチームメートを“切換え”の方向に引っ張るムードメイカーが必要である。

 このことを逆から視ると、モンテの得点力の回復はここにかかっているように思える。どんな相手でも連携が乱れたり、集中力が低下したりする時間帯がある。ここを突けると、相手の乱れを増幅させることができる。
 自分たちが技術でも持久力でも相手より劣っているという自覚をもっとはっきりもって、この“潮目”を見定めることが重要である。
 2009年を勝ち抜くことができたのは、まず徹底して護り、我慢強くチャンスを待つという姿勢があったからである。小林監督は、2010年からモンテをより攻撃的にしようと努めているようだが、モンテイレブンは常にパワーとスピードを発揮できるほどの能力をもっているわけではない。アグレッシブな姿勢は評価するが、もう少し“潮目”を視て、ここだという時に攻勢に移るということ、つまりいわゆるギアチェンジの重視を徹底すべきだろう。

 中盤での展開にも感じることがある。モンテのボールコントロールの下手さである。
 テクニックとスピードが相手より明白に劣っているのにその自覚が十分でないから、相手が近くにいるのに味方のパスが通ると思っている。パスは通ったとしても、ボールのコントロール力で劣っているから、近くに相手がいるとすぐさまコンタクトを受けて次に無理なパスを出させられる。
 “自分たちは相手よりヘタだ”という自覚が足りないことを、味方のスローインを相手に奪われる確率と味方のロングパスを相手に奪われる確率の高さが物語っているはずである。
 ようするに、相手がするのと同じようにパスが通る、相手と同じようにボールの保持ができる、と、こう考えてはいけないのである。パスを通すためには、相手がするよりもっと広い隙間を作らなければならない。相手同士なら通るパスでも、味方同士のパスなら、受ける方がもっとスペースに抜け出して広いパスコースを開かなければならない。つまり、相手より激しく動かなければならない。にもかかわらず、相手よりスタミナが劣っている・・・ならば、やはり力を効率よく使うために“潮目”を読む眼が肝要ということになる。

 攻撃面について目立つのは、サイドの切り込みの甘さである。鹿島戦では、ほとんどサイド深くに侵入させてもらえなかったという印象だった。
 田代というFWタレントのいた2010年のみならず、長谷川が活躍して初残留を勝ち取った2009年においても、サイド攻撃が武器だった。サイド攻撃を繰り返すうちにコーナーキックを得て、“得点の匂い”というものがしてくるのだった。2011年は今のところ、このサイドの切り込みができていない。したがって、試合の流れのなかで“得点の匂い”がする時間帯がさっぱり無いのである。
 サイドをもっと深く切り込むことと合わせて、中央攻撃ではMFが自分のレンジに入ったらもっと積極的にミドルシュートを放つべきである。もちろん、最低でも枠内に入るシュートを放たなければならないが、そのシュート1本で決める必要は無い。ヘタなチームはこぼれ玉に押し寄せるという初歩的な戦術を忌避してはならない。
 また、これは今年のモンテでも何回か見られたが、長谷川やジャンボ大久保をバスケットボールのポストプレーヤーのように使ってセンタリングのボールを落とさせ、それに2列目がポイントガードのように走り込んでシュートという攻撃をもっと洗練させ多用してもらいたい。
 また、中盤から前方を走るFWにアシストのパスを出すときは、FWの前方にパスが転がるようにしなくてはいけない。長谷川や大久保のテクニックでは、後ろから鋭角的にきたパスを効果的なシュートにすることは容易ではない。彼らには、その前方にいわゆるマイナスのボールを出してやらなければいけない。いずれにしても、味方の誰かが中盤でボールを持ったら、前線に走りこむMFやDFの数を増やす必要がある。


 さて、いまのところ、言いたいことはこんなところだ。
 一言で言えば、ここまで落ちたら“強くなること”や“上手くなること”をとりあえず諦めて、“勝つこと”を目指してほしい。勝つために強くならなければならないというのは、ちょっと違う。強くなるというのは、いままでできなかったことをできるようになるということだが、この段階ではもうそれはひとまず諦めて、“できることをやる”という方向に切り替える必要がある。
 そのためには、自分たちが“相手に比べて能力の低いチームだ”ということを徹底して自覚することが第一である。

 能力の低いチームが勝つ・・・われわれはその面白さに魅かれて毎度スタジアムに足を運ぶ。なぜなら、どんなに斯界の評価が低くても、勝ったチームが能力のあるチームなのだからである。             (了)






  
Posted by hiraku at 22:36Comments(0)TrackBack(0)サッカー&モンテディオ山形

2011年06月12日

映画『マイ・バック・ページ』感想



 「フォーラム山形」で、山下敦弘監督作品『マイ・バック・ページ』を観た。その感想を述べる。いわゆる「ネタバレ」の内容を含むので、以下を読む場合はそれを承知のうえで。

 これは、川本三郎による事実に基づく同名の著作を原作とし、脚本家・向井康介がフィクションとして再構成した作品。
 東都新聞社が発行する「週刊東都」編集部記者の主人公・沢田(妻夫木聡)が、「赤邦軍」を名乗る新左翼の活動家・梅山(松山ケンイチ)と接触し、自衛隊駐屯地から武器を奪取するという目的の犯罪に関わって検挙され、新聞社を退社するまでを描いている。
 沢田(川本三郎)は東大卒だが、いわゆる全共闘世代よりは僅かに年長で、東大安田講堂攻防戦を外から眺めていたことに後ろめたさをもっている。
 当時(1971年)は、全共闘運動が排除され、新左翼運動も急速に退潮し、それゆえ一部が先鋭化していく時代。梅山は、このような運動の退潮期に大学生となり、大衆運動ではなく過激な武力闘争を掲げて突っ走る人物として描かれている。
 梅山は、「赤邦軍」の売名(というより、むしろ自身の売名)のため、沢田を利用してマスコミに自分たちの記事を書かせようと接触してくる。
 沢田は、「革命のため武器をもって蜂起する」という沢田の計画に、なにか自分の内部の空虚を埋めるものがあるような気がして、先輩記者・中平(古舘寛治)の「あいつはニセモノだから近づくな」という忠告にも関わらず、その取材を進め、関与を深めていく。

 ここで「東都新聞社」と言われているのは朝日新聞社。「週刊東都」は週刊朝日、「東都ジャーナル」は朝日ジャーナルである。「赤邦軍」は「赤衛軍」、梅山は日大生だった菊井某という実在の人物がモデルである。映画の中に描かれる自衛隊駐屯地での事件は、1971年8月、実施に埼玉県の朝霞駐屯地で起こった「朝霞自衛官殺害事件」である。
 また、劇中ではその理由が明らかにされてはいないが、「朝日ジャーナル」の回収事件とその後の編集部の大規模な入れ替えも実際に起こった出来事だという。(じぶんが「朝日ジャーナル」を読み始めたのは1975年以降なので、この出来事は知らなかった。)


 じぶんは、川本の原作を読んでいないから、原作とこの映画作品の出来栄えを比較して述べることはできないが、この映画作品は、ある程度“あの時代”の雰囲気を再現することに成功している(それは後述するように、あくまで“ある程度”ではあるが)とは言えるような気がする。
 まず、最初のシーンがいい。
 週刊東都の記者である沢田が、潜入取材で、フーテン学生のふりをしてテキヤの子分になって露店でウサギを売っているシーンだ。潜入取材だということは、観客にはまだ明かされないので、映画の概要を頭に入れて観に来た観客をちょっと惑わせる。この冒頭のシーンがとても重要で、これがラストシーンに繋がってくる。この構成、とくに沢田をかばったテキヤの兄ちゃんがヤクザからヤキを入れられるシーンを挿入したのは秀逸である。

 また、甘っちょろいヒューマニストの沢田に妻夫木、虚言癖のある革命家気取りの若者・梅山に松山を配したのは、興行的には正解だったろう。妻夫木も松山も、それなりにいい味を出している。
 しかし欲を言えば、松山には、危険を冒してもう少し不気味さと如何わしさを表現してほしかった。小カリスマとしての梅山は、その愚劣さと如何わしさゆえに同志を巻き込む暗い魅力をもっていたはずだが、松山の演技は抑制されすぎてしまっている。トラン・アン・ユン監督作品『ノルウェイの森』では醒めた雰囲気が奏効していたが、『マイ・バック・ページ』の梅山は、『ノルウェイの森』の主人公・ワタナベの脇を通り過ぎていったあの熱いものたちの中にいる存在なのだ。
 この存在の愚かしさと底無しの暗さと、にも拘らずそれに魅入られてしまう人間の業のようなものが伝わらなければ、なぜこれが青春の慙愧と狂おしい悔悟の物語なのか、その重みが伝わってこないだろう。
 このへんは、やはり脚本の向井と監督の山下がともに、“あの時代”の雰囲気を知らない世代だからということもあるだろう。しかし、彼らが取材を徹底していなかったからだとか、彼らの想像力が通俗の域を出なかったからだといえば、たしかにそうも言えるのである。

 その一方で、京大全共闘議長・前園役の山内圭哉、週刊東都の先輩記者役の古舘寛治、東都ジャーナルデスク役のあがた森魚などが、いかにも昭和らしいいい味を出している。
 また、東都新聞社の編集局のシーンにおける社員たちの会議や会話も、全共闘運動や新左翼運動が決定的な退潮期にあった“あの時代”の退廃的な雰囲気を醸し出していて、なかなかいい感じだった。
 とくに滝田修がモデルの前園役の山内の関西弁による如何わしい思弁と、先輩記者役の古舘の硬派と軟派が同居した佇まいは、“ああ、いかにもこういう奴らがいたなぁ”と思わせるに十分である。


 最後に、愚劣で醜悪な小カリスマとしての梅山たちについて一言。
 いつの時代にも、このような夜郎自大で無責任な勘違い人間は生み出されているだろう。今なら、一種の人格障害とでも診断される存在である。
 だが、“あの時代”には、このような人間を生み出す社会的土壌が存在した。ひとびとは個人として時代に抗いうる<自己権力>を欲したのである。沢田のような人間が惹かれたもの、それはこの<自己権力>が生滅する時空なのだと思える。
 さて、この<自己権力>という観念に、自己中心性と党派的な妄想が入り込み、倫理性の欠如を招いたとき、いつでも梅山のような愚かしい人間が現象する。これは、かつての新左翼にのみ特有な現象ではない。
 ラストシーンの涙が語りかけるのは、ひとり川本三郎の青春後悔物語で終わるような性質の話ではないのである。

 もうひとつ、蛇足。
 沢田と梅山が意気投合する重要なシーンで、梅山が沢田の好きだというC.C.Rの「Have you ever seen the rain ?」を弾き語りする。
 この曲はじぶんも中学生時代に夢中になった想い入れのある曲で、詩集『母を消す日』(2004年、書肆山田)に収めた「晴れた日に降る雨を」という作品で取り上げている。
 “あなたが晴れた日に降る雨を見たことがあるか?・・・そんなこと、ぼくは知りたくない”という歌詞で、その“晴れた日に降る雨”というのは、ベトナム戦争で多用されたナパーム弾のことだと言われている。この映画の中でも、それを指摘する台詞が出てくる。
 高啓の詩「晴れた日に降る雨を」では、「Have you ever seen the rain ?」という曲名からベトナム戦争におけるナパーム弾が連想され、そこからさらに、現に進行しているアフガン戦争で使用された“デイジーカッター”(雛菊刈取り機)という名の超強力爆弾が連想されている。

 楽曲の話をしたついでに、さらに蛇足を加えると、「My Back Page」と聞いたら、じぶんなどは、ボブ・ディランよりキース・ジャレットの演奏を思い浮かべてしまう。そういう、ある意味、ビミょーな世代である。

                                                                                                                                                                 


  
Posted by hiraku at 16:16Comments(0)TrackBack(0)映画について

2011年05月26日

薄情者の大阪行(その2)




 初夏の日差しが降り注ぐ暑い一日だった。
 新世界から引き上げると、いったん淀屋橋の“超豪華”ホテル「ホテルユニゾ淀屋橋」(シングル6,900円)にチェックインして、シャワーを浴びる。
 このホテル、部屋は狭いがビジネスホテルとしては小奇麗だった。というか、そのエントランスやフロントなどのシャープ(?)な内装から受ける印象が、周りがオフィス街ということもあって、ホテルに泊まっているというよりオフィスビルに泊まっているという感じで、まぁ寛げない。
 部屋のキーはICカードだが、エレベータに乗るにもこのカードをセンサーに接触させないとエレベータが上昇しないようになっている。下りはカードを使用しなくてもフロントのある1階には降りられたが、1階以外には止まらない仕組みになっているのかもしれない。泊り客以外の侵入を防ぐ機能としては有効かもしれないが、どうも世知辛くて印象は悪い。それに、緊急避難時などに問題はないのだろうか・・・そんなことが気になった。


 夕方の5時過ぎ、部屋を出て御堂筋を北へ向かって歩き出す。
 土曜日のビジネス街は人通りも少なく、日陰には爽やかな風が吹いている。ジョギングしている人も見かける。
 「COTOありがとうの会」は、夕方の6時から、北新地のとある店で開かれることになっていた。
 案内状に書かれた会場の「際(きわ)」は、全日空ホテルの北側のビルにあるというので、その辺りを探して歩くが、なかなか見つからない。それもそのはず、その店は漢字の「際」という料理屋ではなくて、「BAR KIWA」という店だった。ビルの入り口に立ち入って郵便受けの上の看板を見ないと、この表記が見つけられなかった。

 その店のドアを開けて中に入ると、すぐに安田さんが声をかけてくれた。
 安田さんと二人で「COTO」を発行してきたセンナヨウコさんは欠席だったが、安田さんを含めて12人ほどの寄稿者が集まり、穏やかに会が始まった。じぶんは、安田さん以外は初対面だった。
 一番遠くからきた人は北海道、そして二番目に遠いのはじぶん、そして東京から来た人も2人いた。
 それぞれが自己紹介をして、安田さんとの関係について話した。大新聞の部長経験者、大出版社のOB、フリーライター、現役の大学教員など、いわゆるインテリ層の人から、銅版画家、お坊さん、福祉関係者、ホームレスなど最下層の人々と近しく交流している古本屋さんまで、多彩な顔ぶれだった。まさに安田さんの人柄がこうした多彩な人々を惹きつけているのだろう。

 安田さんはいわゆる団塊の世代で、出席者は同世代かそれより上の世代の人が殆どだったから、この12人のなかでじぶんはもっとも若い方だった。ある出席者には「高啓というのはどんな人かと思っていたら、青年が来た」などと冷やかされた。
 信用できるかは別として、「あなたの詩のファンです」などという人もいた。それに、安田さんをはじめ、何人かが高啓のブログを読んでいると言っていた。
 出席者は、それぞれが人生の厚みを感じさせる佇まいで、魅力的だった。なかにはこれから新たな詩誌を創めると言う人たちもいて、それぞれがまだまだ精力的に活動する気配である。ほんとうはそれぞれの実名を出して、その人がどんなことを語ったか、その人からどんな印象を受けたかなどを書き込みたいところだが、迷惑をかけるといけないのでそれはやめておく。


 と言いつつも、上に掲げた画像の書籍とその著者について一言触れておく。
 この本は、当日の出席者のひとり、著者の大橋信雅さんからいただいたものである。大橋さんは、和泉市の寺の住職を生業(シノギ)としているが、この著書のなかで、映画館で映画を観ていた時間が人生でもっとも長く、年に500~600本の映画を観る生活を続けてきたという。
 その人生が、映画評のようにして描かれているのがこの『ホトケの映画行路』(れんが書房新社)という本である。

 この本を、帰りの新幹線で読んだ。
 出席者の誰かが、大橋さんの「COTO」への寄稿文について、「映画批評のなかで必ず自分の人生が語られる。“私小説的映画批評”だ」という趣旨のことを語っていたが、たしかにそのとおりだった。
 子どものころから映画好きだったこと。高校を卒業してから寺の住職である親の進めるまま京都の仏教系大学に進学し、それが嫌になって家から脱出するために早稲田大学に入り直したこと。「政治の季節」における酒場からデモに向かう東京生活、そして女との関係。・・・連合赤軍事件における友人のリンチ死。やがて、“なにもしないで生きていく”という決意と、暴飲と酒場での喧嘩にあけくれるアナーキーな生活。・・・好意を寄せる酒場の女にしつこく絡んだ男を刺したことによる逮捕。実家への帰郷。結婚と双子の息子の誕生。両親の影響が仄めかされる同居していた25歳の弟の自死。両親への呪詛。・・・そして、そこから始まる映画館と酒場への没入。
 映画作品の世界を語るうちに、著者自身の苦しみの記憶と情感とがせり上がってくる。・・・これは、不器用に、しかもなにか温かなものを痛切に求めて彷徨する自らの様を晒す、まさに“身を斬る”ような映画論なのである。


 じぶんは「BAR KIWA」で、大橋さんの隣に座っていたが、彼と交わした言葉はそんなに多くなかった。大橋さんは、自己紹介が終わると、ビールに続いてウイスキーのオンザロックのダブルを数杯飲んで、酔っていった。酔って饒舌になるということはなかったが、やや呂律が怪しくなり、しかもかなり早口の関西弁でしゃべられるので、じぶんにはうまく聴き取れない。もっとも、映画館にいる時間と酒場で飲んでいる時間が、自分の人生の時間の大方を占めていると(上記の著書に書いてあることと同趣旨のことを)語ったのは覚えている。
 じぶんが観ている映画の数は、話にならないくらい少ない。だから映画の話はしなかったが、山形国際ドキュメンタリー映画祭に来てみてください、くらいの話はしたのだったかと思う。

 大橋さんの文章は、自分と同じように旨く生きられない、あるいはぼろぼろになって若死にしていく酒場の仲間たちを、“慈愛ある”とまでは行かない、それでいて近しく看取るかのような絶妙な位置取りの視線から描いている。それは、たぶん、自分自身への視線でもあるのだろう。ただひとつ、奥さんや息子さんたちが彼をどう視ているかについての記述がないこと、つまりはそのレティサンスだけが、ひっかかる。
 新世界では、映画の画看板を掲げた昔ながらの劇場の前を懐かしがって通り過ぎてきたのだったが、そんな映画館の暗がりのなかに、椅子に沈み込む、文字通り坊主頭の大橋さんの姿を想い浮かべつつ、「のぞみ」と「つばさ」の6時間を過ごしたのだった。                                 (了)



  
Posted by hiraku at 19:40Comments(1)TrackBack(0)歩く、歩く、歩く、

2011年05月25日

薄情者の大阪行(その1)



 2011年5月21日(土)、東京駅から、東海道新幹線で大阪へと向かう。

 安田有さんとセンナヨウコさんが発行していた寄稿誌『COTO』が終刊したので、大阪の寄稿者が発起人となって「COTOありがとうの会」が開催されることになり、その案内がじぶんにも送られてきた。
 こんな機会でもなければ当分は大阪を訪ねることもないだろうし、この機会を逃せば安田有さんといつお会いできるかわからない。思い切ってぬけぬけと顔を出すことにしたのである。
 

 21日の昼過ぎに新大阪駅に着くと、まず構内のJRの案内所で天王寺に向かう路線を尋ねた。
 駅員のような男性職員は、地下鉄なら乗り換えなしで行けるが、JRだと大阪駅で乗換えが必要だと言う。そこで、「何線に乗ればいいのですか?」と尋ねると、「どれでもいいですよ」と言うのである。首をかしげながら大阪駅に向かうと、いくらなんでもどのホームの列車に乗ってもぜんぶが天王寺に行くとは思えない。(苦笑)
 それで今度は改札口の男性駅員に訊くと、すぐさま「1番線です」とだけ言う。そこで「環状線」と書かれた1番線ホームから、そこに来た電車に乗り込む。
 いくつか駅を経ていくが、どうも様子が変だ。「ユニバーサルシティ」とかいう駅を過ぎ、“終点”の「桜島」に着いてしまったのだ。(再苦笑)
 じつは、このあと、御堂筋で淀屋橋近くのホテルに行こうとしてGoogleの地図のコピーを視ているときも、通りがかりのおばさんからヘンな教えられ方をした。こちらが道を尋ねたのではなく、向こうから親切に「どこに行かれます?」と声をかけてくれたので、大阪のおばちゃんはずいぶん親切だなぁと思って話を聞いていたが、どうも見当ハズレなことを自信ありげに言っている。さすがに3度目なので眉唾で聞き、結局は自分が持参した、あの見にくいGoogleの地図から場所を見つけ出した。
 ・・・大阪のひとは、やはりわれわれとはちょこっと違う・・・と思った次第。(笑)

 天王寺で降り、通天閣を眺めながら、天王寺動物園と市立美術館の敷地に挟まれた通路を新世界へと向かう。両側が高いフェンスで囲まれていて、緑の空間なのに閉塞感がある。両施設の敷地とその間の通路を区画するためにフェンスが必要なのはわかるが、空間デザイン上、もう少し工夫があってもいいような気がする。

 さて、新世界を訪れるのはこれが3度目。
 1度目はたぶん1980年頃だった。いま、故郷の秋田県湯沢市で、末期がんと闘っている高校時代の友人Y氏を大阪に尋ね、彼の案内で新世界を訪れたのだった。Y氏は、東京での仕事に疲れ、帰郷の決意をしていたのだったと思うが、その前に東京で稼いで貯めた金で関西を見物して歩くと言って、大阪に部屋を借りていたのである。
 確か、その足で彼と二人して山陰へ小さな旅に出た。ふたりともNHKのテレビドラマ「夢千代日記」のファンだったので、そのドラマに出てくる餘部の鉄橋を渡りに行ってみようと思い立って出かけたのだったと思う。城之崎温泉かどこかの安宿に泊まった記憶がある。
 この頃の新世界は、まだ汚くてちょっと危ない雰囲気があったような記憶である。ジャンジャン横丁の串カツ屋で、初めて関西風の串カツやどて焼きを食った。いちど口を着けた串カツは、二度とソースの容器につけてはいけないというルールに緊張した。(笑)
 2度目は、1990年代の前半だったと思う。女房と息子たちを連れて、親類のいる神戸に向かう途中、青春時代の想い出の場所である新世界を再訪したのだった。
 1990年の「国際花と緑の博覧会」(通称「大阪花博」)を経て、新世界は小奇麗に整えられすでに「観光地」になっていたが、それでも周りには露天商が店を出していたり、ルンペンがいたりして、昔の面影がいくらか残っていた。
 以前に訪れたときと同じ店で、息子たちにルールを言い含めながら串カツを食わせた。息子たちは、親父の嫌いなお好み焼きも食いたがったので、ジャンジャン横丁の出口近くのお好み焼き屋にも、しぶしぶ入った記憶がある。
 3度目の今回も、やはりまたあの串カツ屋に入った。だが、若い女性やカップルが増え、店の客層は昔とすっかり変わっていた。店員が中国語を話しているのを聴いて、時代の移り変わりを感じた。生ビールのジョッキを1杯と、串カツを4本と、どて焼きを1本で、計1,100円。これだけでそそくさと店を後にした。

 ほんとうは、大阪に来る暇があったら、Y氏の見舞いに湯沢へ帰省すべきなのだ。正月以降は、大震災後の仕事の忙しさにかまけて、安否を問う携帯メールさえ送っていない。・・・なんと薄情な<似非友人>ではないか。
 ・・・だが、しかし、彼になんて声をかければいいのか。
 ・・・“まだ生きているか”と、何よりそう問いかけなければならないのだが、では、じぶんはなんのためにそう訊くのか・・・ぬくぬくと生きているじぶんの後ろめたさを誤魔化すためではないのか・・・そんな想いがして、ひとりこんなところに足を向けているのだった。
 (Y氏については、「山形詩人」69号に発表した「蒸気機関車がわれらを救いたまう日」という詩で触れている。)

                                              以下、次回へ。




  
Posted by hiraku at 02:24Comments(0)TrackBack(0)歩く、歩く、歩く、

2011年05月03日

原武史著『滝山コミューン一九七四』感想及び余談





 
 原武史著『滝山コミューン一九七四』(講談社、2007年)を読み、さまざまな想いが過ぎった。

 著者は1962年生まれ。慶応義塾の中学・高校を経て東大で日本政治思想史を専攻し、明治学院大学の教授を務めている。
 この作品は、学者としての著作というのではなく、東久留米市立第七小学校における中・高学年時代を振り返った、いわば自らの過去たる“歴史”の証言、そして自らの過去の対自化の記録である。

 西武新宿線の花小金井駅を最寄り駅とする東久留米市滝山地区。そこに1968年から70年にかけて建設された総戸数3,180戸の滝山団地で、著者は小学校1年から中学校1年までを過ごした。
 革新都政が支持を集め、総選挙では多摩地区で日本共産党の候補者がトップ当選し、国会で「保革伯仲」の状況が生まれた時代である。
 「私が小学校6年生になった1974年、七小を舞台に、全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、そして七小の改革に立ち上がったその母親たちをおもな主人公とする、一つの地域共同体が形成された。たしかにごく一時的な現象ではあったけれども、『政治の季節』は、舞台を都心や山荘から郊外の団地へと移しながら、72年以降もなお続いていたと見ることもできるのである。」

 著者は、「国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指したその地域共同体」を、「いささかの思い入れ」を込めて『滝山コミューン』と呼び、そこで生きた自分の「暗く苦いものとして、にもかかわらず奇妙な懐かしさを伴わずにはいられないものとして、この三十年間、ずっと奥底に沈殿したままになっている」記憶をたどり、史料やインタビューを集めて、高度経済成長期のある時期の、東京郊外における、その“歴史”を記録しようとしている。

 じぶんの印象を初手から述べてしまえば、この著作を読んで、ここに「滝山コミューン」と呼ぶに値する何かが存在したと説得される内実は記述されていない。主に記述されているのは、日教組の全国生活指導研究協議会(全生研)の方針による学級づくり・学校づくりを目指す片山(仮名)という教師に主導された児童たちの学校行事をめぐる集団主義的な運動、それもこの学校において著者の属した学年で一時的に生成したところの「歴史」である。(初めにPTAの話がでてくるが、そのPTAの実態は殊更「集団主義的」などと言上げするほどのものではない。)
 ただし、勉学に秀で、早熟で自我に目覚めつつあったこの著者にとっては、そこで与えられた「トラウマ」の重さと「奇妙な懐かしさ」は、その記憶の対象物をして「滝山コミューン」と名づけさせるのに十分であり、その想いは、ほんの少しだけ似た経験をしているじぶんには、なぜかとてもよくわかるような気がする。

 彼は、小学校では集団主義に反発し、休日には一流大学への進学のために有名進学塾に通って中学受験を目指す。彼にとって受験勉強のために通う塾は息抜きの場であり、塾に通うために乗る電車たちは限りない興味の対象である。
そして、彼はまた、すでに「なぜ自分は存在するのか」という自我意識に苛まれる思春期を生きはじめてもいた。その多感な思春期の想いがよく伝わってくる。
 一方で、「奇妙な懐かしさ」は、自分の学年が卒業すると、その「コミューン」があっという間に崩壊したこと、さらには、当時進んで「民主集中制」的な児童会活動を担っていたはずの同級生たちが、11年後の同窓会で再会してみると、その活動の記憶をほとんど喪失していることにも起因している。
 こうして不惑の歳を越えた著者は、今のうちに「歴史」の証言をまとめておかなければと衝迫され、この著作を記した。・・・事情はこういうことである。

 この著作でもっとも印象的なのは、著述時に40代の半ばで大学教授となっている著者と、この物語に登場する小学時代の著者の精神的な在り様がほぼ同置されていることである。言い換えると、ここに登場する子どもたちはぜんぜん子どもらしくない。
このことを逆に言えば、著者にとっては、あのときの小学生たちは、精神的な位相としては、いま(=著作時)の自分と同じ位相に存在しているのだ。
 さらに別の言い方をすれば、この人はかつての小学生だった自分やその自分が見ていた同級生たちとの距離が取れていない・・・そういう印象がやってくる。だが、そういう印象が、通常とは逆に、不思議にもこの著作に陰影と奥行きとを与えている。

 著者は、このなかで、遠山啓の「水道方式」の教条化に象徴される「平等」主義的学校教育及び「班」の運営とその競争主義を基本とした学級運営、そしてその班活動を統率する民主集中制的な児童会活動を中心とした集団主義を言上げしつつ、これを嫌悪し拒否してきた自分のアイデンティティを表白している。
 しかし、その一方で、この嫌悪すべき「コミューン」を、慶応義塾という名門私立中学に合格することによって脱出し、同時に「西武新宿線」沿線から「東急東横線」沿線に引越し、ようするに“慶応的なるもの”に身を任せてきた中学・高校時代について、次のようにも述べている。
  「75年3月まであれほど鮮明だった私の記憶は、慶応に入学するととともにしだいに曖昧になり、いまでは自分が慶応に通っていた過去をもっていること自体が信じられなくなっている。」

 1990年代まで、「日の丸」「君が代」の強制に対する拒否という形で、かろうじて教育現場に残存してきた70年代の精神遺産は、石原都政による「日の丸」「君が代」の強制で一掃された。
 著者は、70年代の「民主集中制」的な学級運営と学校経営の運動が、戦前の国歌総動員体制における運動と相似形であることを指摘しつつ、教育政策の保守化後の状況を受けて、あえて次のように問う。
 「2006年12月に教育基本法か改正される根拠となったのは、GHQの干渉を受けて制定されたために『個人の尊厳』を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統との結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観であった。だが、果たして、旧教育基本法のもとで『個人の尊厳』は強調されてきたのか。問い直されるべきなのは、教育基本法の中身よりも、むしろこのような歴史観そのものではなかったか。」

 さて、ここからは、じぶんの体験を記しておきたい。
 じぶんは、原武史や小熊英二などより5歳ほど年上で、1957年生まれである。ちょうど東京オリンピックの年に小学校に入学した。じぶんの家では、オリンピックを観るために、この年にテレビを購入した。この頃の記憶はとても鮮明である。
 生まれ育ったのは東北の農村部の小さな城下町の商店街で、団地など存在しない地域だった。東北はまだ首都圏への出稼ぎで暮らしをたて、集団就職が行われていた時代である。ちなみに、じぶんの中学3年時のクラスの記録を見ると、卒業時に同級生の約15%が中卒で就職していた。東北という当時の後進地であることや、旧い城下町であったことから、地域には旧い社会秩序が残存し、社会階級による貧富や身分の格差が、まだ小さくなかった。教師たちには、当然ながら「全共闘世代」はまだ存在しておらず、「60年安保世代」もいなかったように思う。
  しかし、この小学校高学年時代に、じぶんも担任の教師によってトラウマとなる強烈な「戦後教育」の経験をもった。

 担任の教師は50代の独身女性だった。じぶんたちはその先生を、畏敬と卑下と愛着の入り混じった想いで、陰で「カツコばんば」(かつこババァ)と呼んでいた。
 彼女は、まさに「班活動」を中心とした学級運営と「連帯責任」を強調した教育を強烈に実践していた。教育態度は厳しく、自分と生徒たちの、課題の実行に対する妥協を許さなかった。
 当時、彼女が、生徒であるじぶんたちに、ことあるごとに語ったのは次のようなことだった。

 ① 自分は、戦前の教員生活で、国家主義の教育をして、子どもたちを戦場に送ってきた。戦争は二度と起こしてはならない。 自分の過ちを繰り返さないと誓って戦後の教育現場に立っている。
 ② 日本は、戦争でアジアの人々に酷い仕打ちをした。国民も大変な苦難を経験した。日本はこの反省にたって、二度と戦争をしないということを誓い、日本国憲法を掲げて戦後を歩みだした。
 ③ しかし、自民党は戦前の国家主義的な体制に戻すことを画策しており、いま、日本はアメリカの支配のもとで、再び戦争に駆り出されようとしている。
 ④ 歴史を振り返ると、王制によって民衆は弾圧され支配されてきたが、日本の王制つまり天皇制は世界の王制とはまったく異なり、強権的な支配を行ってこなかった。天皇に戦争責任はない。悪いのは東条英機ら軍部だった。
 ⑤ アメリカは民衆を搾取する資本家階級による世界支配をもくろむ勢力であり、ソ連などの「社会主義」国は民衆の平等と民主主義を広めようとする勢力である。

 じぶんは自分の家族から、彼女が日本共産党の党員だと聞いていた。たぶん日教組の組合員でもあっただろうが、彼女の思想は、いわゆる「反米愛国」、ソ連型社会主義の理想化、そして天皇への敬愛というような要素で構成されていた。そして、全体としてみればその心性は、じつは彼女が猛省したと語っていた戦前の国家社会主義的なイデオロギーと大して変わらないものだったように思われる。
 じぶんの経験に照らせば、保守派が批判する「戦後民主主義教育」の実態は、その基底部分で戦前・戦中的なものと通底する集団主義的な心性に支えられたものだった。原の言うように、「戦後民主主義教育」が「『個人の尊厳』を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統との結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観」は多分に疑わしい。


 さて、では、じぶんはなぜ「カツコばんば」に“トラウマ”を植えつけられたように思うのか。
 それは、まさに彼女の展開する「班活動」の先にある、ある特殊な事情によっていた。
 カツコばんばは、まずクラスを5人ないし6人ごとの班に編成した。班長は、最初は先生が指名したが、次からはクラスの生徒が自ら選出する方式とされた。立候補(立候補者が足りなければ他薦)とクラスの全員による承認という手続きを経て班長が決まると、班長が集まって各班の班員を決める。クラスメイトの一人ひとりについて、学業成績や運動能力、そして生活態度、性格などを評価し、その組合せを考えて各班の運営がうまくいくように割り振るのである。
 問題児をどの班長が引き受けるか、そして問題児を引き受ける見返りにどの程度優秀な班員を配属するかなど、すべてを班長たちが協議して決めた。特長的だったのは、このとき問題児と看做されていた者や学業成績が下位の者も班長になる場合があったことだ。
 
みんなが平等に班長という大役を担う点は進歩的に見えるし、なによりしばしば学級委員(いわゆる級長)をやらされていたじぶんにとっては楽だったのだが、一方でじぶんはこの班制度に異和を感じるようになっていった。
 班員を振り分ける過程で、班長たちがクラスメイト一人ひとりに評価付けをしていく。しかも、この子は性格的に弱いし学力もないから、こちらの子をサポート役につけて。こいつはいじめっ子だから、いじめられっ子のこの子とは離して。・・・などと、気がつけば管理者あるいは経営者の立場で級友を見るようになっていることに生理的な嫌悪感を抱くようになったのだ。

 班員は、すべての活動において連帯責任を負わされた。机はいつも班ごとに班員が向き合う形で並べられていた。班員に勉強についていけない者がいれば、べつの班員が教えた。
 また、このような集団主義と平等主義は、学級レベルでも徹底されていた。
たとえば、リコーダーである曲の演奏をマスターする課題が与えられたとする。一人ずつカツコばんばの前に行って演奏し「合格」の認証をもらわなければならないのだが、どうしても途中でピーと穴をうまく塞げない音を出したり、暗譜ができずに引っかかる者がいる。
 最後の一人が試験をパスするまで、クラスの全員が教室に残らねばならなかった。そもそもカツコばんばの授業では、あらかじめ決められていた時間割などにはほとんど頓着せず、とにかく彼女が納得するまでその科目の授業が続けられた。社会科の授業が3時間も休み時間なしで続くこともあったし、リコーダーのときは夜の7時か8時まで全員が教室に残され、親が迎えに来たものだった。(付言しておくと、この「平等」主義は、バカな保守派が「民主教育」を非難するときに決まって例示する「運動会の競走で順位付けを避ける」などいう「平等」主義とはまったく異なるものだった。一定水準以上の結果に到達するまで、すべての個人が相応の努力を厳しく迫られ、すべての構成員がその経過に付き合わされるという「平等」主義であった。)

児童会が関わる行事を重視するという点は、原の学校と同じだった。しかし、じぶんのトラウマは、児童が自ら積極的に行う集団主義的な行動や民主集中制的な組織運営、あるいは原の著書に出てくる「追求」によるものとは違っていた。
 それは、一にかかって、カツコばんばによる私個人への責任の賦課とその厳しさによるものだった。
 カツコばんばは、学級の誰かが失敗したり先生の指示に従わなかったりしたことについて、ほとんどつねに学級委員である私の責任を追及してきた。たとえば、学校行事でスキー場にスキー教室に行くとする。学校から片道3~4キロほどの雪道を、一列になってスキーを担いで歩いて往復するのだったが、その行動でクラスの誰かが先生の指示に従わないで道路をスキーで滑って帰ったとか、全員に解散が宣言される前にある班が勘違いして帰宅してしまったとか、私が関与していない(あるいは関知するにはずいぶん離れたところで引き起こされた)失敗やルール違反についても、悉く私の責任が問われた。つまり「啓くん、あなたが気をつけていれば、こういう事態は防げたのではないですか?」「自分の知らないところで起こったことだとしても、少なくても常日頃の行動のなかで、あなたにそれを防ぐためにすべきことはあったでしょう。あなたはそれをしていましたか?」と、こういう具合にである。

 これは、集団主義とか連帯責任とかいうのとは異なる。集団のあらゆる問題を、特定の個人の責任として引き受けるよう迫る教育だ。学級委員を代わってからも、じぶんは同じように個人として集団に対する責任を追及された。毎日、その日の行いに関する総括をノートを書き、それを先生に提出し、“自己変革”していかなければならなかった。
 なぜ私だけが(ほんとうは私だけではなかったのもしれないが)いつも責任を追及されたのかはよくわからない。学級委員を何度も務め、クラスでは比較的学業成績が良く、授業(とりわけ観客のいる「研究授業」)で教師の期待に応えるような発言をよくする子どもではあった。そして比較的従順で、責任感も強かったからなのかと思うほかない。

 カツコばんばから受けた影響は、その後永く自分を拘束した。
 日本は自民党や右翼勢力によって支配され、民衆の自由が奪われ、再び戦争へと向かっている。それに対して自由と民主主義を守るため、自分は何かをしなければならない・・・。たとえば、自分の住む街がファシストのような連中に占領され、じぶんが少年レジスタンスのように地下に潜行して抵抗を組織する・・・小学5・6年生のとき、ひどい息苦しさや圧迫感を感じながらそんな夢を何度もみた。
 政治的あるいは思想的な責務だけではない。どんな事柄であれ、社会的な問題でそこに人々のためにしなければならない課題があるとしたら、自分はそれに誠意をもって関与しなければならない。事象の行き先を読み、それに対して注意を怠らず、しかも個別的に人を助けるというよりも、先導的な視点から、事象があるべき方向に進むように影響力を行使できるよう努めなければならない・・・。こういう使命感(というよりも強迫観念)に無意識のうちに拘束されている自分を振り払うことができたのは、望まない大学に入って挫折を経験し、学生演劇に関わってアンダーグラウンド演劇の思想や方法論に触れてからだった。
 演劇や文学に触れたことで、じぶんはいったんは“カツコばんばの呪い”を振り払うことができた。“当為”の重荷から解かれたじぶんは、倫理主義的に硬化していた当時(1970年代後半)の学生運動には関わらずに済んだ。
 しかし、やがて20代の終わりから30代の半ばまで労働組合活動(対自的にはそれは組合運動でも労働運動でも政治運動でもなかった)にのめり込むことになり、その後は組合活動からも離れたが、今度は自らの仕事に対する入れ込みにおいて、当為の世界(それはあくまで対自的なものだが)を生きてきてしまったという想いがしている。
 
  だから(というのも不条理な話だが)、じぶんは、原武史がこの著作で見せた複雑な想いに魅かれつつ、ある部分では“いい気なものだな”と辟易している。
 原は、戦後史のある現実の中を生かされ、その体験から「トラウマ」を負う。だが、その忌避すべき現実からエリート予備軍の世界に脱出し、さらにはそのセレブぶった“慶応的なるもの”からも離脱して、東大を卒業し大学教授になっている。
 彼は、自分にトラウマを与えた歴史的事実を記録するために、かつてのクラスメイトや教師を訪ね、話を聴いて歩く。しかし、そこには、「滝山コミューン」以後、人々の歩いてきた道はまったく描かれない。プライバシーに配慮したといえば聞こえはいいが、少なくてもこの著作には、同じ環境を生かされ、自分がそこを脱出した後もその世界(滝山団地)に残った人々の姿に対する視線が存在していない。


 最後に蛇足。
 40代に差し掛かった頃、そのクラスの同級会が開かれた。呼びかけ人の中心人物は、いちばんの悪ガキの劣等生で、いつも先生に叱咤されていた男だった。驚いたことに、関東でタクシー運転手をしている彼は、カツコばんばを母親のように慕い続けていたのだった。
 しかし、80歳を過ぎ認知症の初期症状が出始めていたカツコばんばは、同級会の当日、会場に現れなかった。幹事が迎えに行っても、「あなたたちにひどい教育をした。私には同級会であなたたちに囲まれる資格がない。」と言って、頑なに家を出ようとしなかったのだ。じぶんは、彼女があの学校での日々をじぶんと同じように今も重く抱えているのだと、このとき初めて知った。そして、その瞬間、少しだけ何かが晴れるような想いがした。
 そこで、今度はじぶんが迎えに行った。単身で暮らす彼女の締め切った家には、心を病む者の家に特有のあの匂いがしていた。じぶんは、すでにあのカツコばんばと向き合っているのではなかった。かつて福祉6法のケースワーカーをしていたときの心持ちに回帰し、衰え自信をなくしているひとりの老婆と向き合い、彼女を慰撫しあれこれの話術で元気付けていたのだ。(カツコ先生、おれはもうあなたを赦している・・・心中で自分にいい聞かせるように語り掛けつつ。)
 玄関先で1時間あまり話し込み、やっとカツコばんばを同窓会に連れ出した。宴会場に現れた彼女は、かつての威厳を失って弱々しく見えはしたが、多くのクラスメイトについて、彼らをめぐる出来事や家族関係などの背景も含めて、驚くほど鮮明で確かな記憶をもっていた。会はとてもなごやかに進み、参集者たちはカツコばんばを見送ると、一様になにか大きな宿題を仕終えたとでもいう表情を見せていた。


 
 「戦後民主主義教育」が、じつはむしろ戦前的な精神のバックボーンに規定され、自由主義的な「個人の尊厳」や「自由な意思」を重視するようなものではなかったこと。そして、保守派の多くが未だにバカの一つ憶えのように批判し続けているかつての「日教組」の教育が、じつは戦前・戦中的な精神性と連続した土壌のうえに存在したことに、われわれはもう少し考慮を払ってもいいだろう。                     (了)

  
Posted by hiraku at 11:21Comments(0)TrackBack(0)作品評

2011年03月26日

映画『冷たい熱帯魚』感想



 3月の初めに上京した折、新宿の「テアトル新宿」という映画館で、園子温監督の『冷たい熱帯魚』を観た。その感想を記す。筋書きに関する記述を含むので、いわゆる「ネタバレ」となることに留意のうえ、以下の文を読むかどうかを決めていただきたい。

 映画が始まってすぐ抱いた感想は、「あ、これ1970年代の終わりから80年代前半くらいまでの『日活ロマンポルノ』の雰囲気だなぁ」というものだった。それもそのはず、製作会社は日活なのだった。
 「ポルノ映画」や「ピンク映画」はもう20年以上も観ていないから、今はどんな作品が作られているのか全く知らない。そして園子温監督の作品もこれが初めて観る作品だった。それでもなんとなく、園監督はあの時代の質感とあの時代のパワーみたいなものを継承しているようであり、さらには世代的なこだわりがあるような印象も受けた。

 話は実話に基づいているというが、こういう事件(1995年に発覚した埼玉愛犬家連続殺人事件)は自分の記憶にはなかった。ただし、1984年頃の大阪愛犬家連続殺人事件なら記憶にある。埼玉の事件の方は、阪神淡路大震災やオウム真理教事件の陰に隠れて報道の扱いが小さかったらしい。なお、大阪の事件と埼玉の事件はまったく無関係とのこと。)

 大きな熱帯魚ショップを経営している村田(でんでん)は、口の上手さとドス効いた迫力で投資を持ちかけ、何人もの人間から金を騙し取り、犯罪が発覚しないよう妻・愛子(黒沢あすか)と共謀して、それらの人間を「透明にしてしまう」極アク人である。
 主人公・社本(吹越満)は、村田に目を着けられ犯罪に引き摺り込まれる気の弱い同業のしがない個人商店主である。
 このふたりに絡む女優陣がまた“ロマンポルノチック”な雰囲気を醸し出している。
 ワルで精力に満ちた村田の妻役に相応しい黒沢のエろくて狂気じみた演技、そして主人公・社本の妻・妙子役の神楽坂恵、娘役の梶原ひかり、村田の熱帯魚ショップのレズビアンの店員役の女優などのいかにも“B級!”という感じの演技っぷりが、絶妙な味を生んでいる。
 
 物語のクライマックスは次のようなものである。
 村田と愛子は、騙した相手を殺し、その証拠を抹消するために、山の中の家で死体を解体し、肉と骨に分ける。肉は細切れにして山中の川に捨て、骨はドラム缶で灰になるまで焼いてこれも山中に捨てる。
 社本は無理やりこの手伝いをさせられるのだが、やがて村田にその弱腰を激しくなじられ、殴られ、お前もこうやって精力的に金を稼ぎ、女房を満足させてみろと挑発される。
 そして、愛子を犯せと命じられ、無理やり行為をさせられるのだが、その最中に人が変わったように攻撃的になり、村田をボールペンでメッタ刺しにして瀕死の状態にする。
 社本は村田を倒したことで村田の地位を奪ったかのように居丈高になり、愛子に命令して村田の息の根を止めさせ、その死体を解体させる。そして自宅に帰り、反抗的になっている娘を殴り倒して、その横で妻を無理やり犯す。ここで社本は支配者に変身を遂げたかのように見える。しかし、すぐに自分がそのような存在になりきれないことを悟り、警察に通報する。
 最後の場面、社本は、山中のアジトに戻り、そこで村田の死体を解体していた愛子を包丁で刺し、さらには警察と一緒に駆けつけた自分の妻を刺す。そして娘に歩み寄って彼女を軽く刺し、人生は痛いものだと説教を垂れてから、今度は自分の頚動脈を斬って娘の目の前で自害する。娘は、だがその父の死体を蹴っ飛ばして哄笑する・・・


 さて、この映画の終幕の展開は、何を伝えてくるだろうか。
 主人公・社本は、一人目の妻と死に別れ若い後妻を迎えているが、これが年頃の娘の反感を買っている。後妻もうだつの上がらない夫との暮らしに疲れ、自分の境遇に苛ついている。そこに現れたマッチョで快活で極アクな村田の存在感に、社本は有無を言わせず手下のような境遇に引き込まれていく。そしてある時点で、支配者=教育者のように振舞う村田から、いわば“教育的侮蔑”を受け、それにキレて下克上を遂げたかのように見える。
 しかし、社本は、すぐにそれが虚しいことに気づく。いや、作中では、そもそも彼は心底ではそういうものを欲していなかったという印象を与える風にさえ描かれている。
 じぶんのイメージの中にある1970年代の終わりから80年代前半くらいの日活ロマンポルノやピンク映画作品では、この下克上が遂げられたところで物語が終わるか、あるいはこの作品で社本が最後に自害するように、その下克上の結果を自己否定して主人公が破滅し、“観客に衝撃を与え”物語が大団円を迎えるというふうに構成されていたような気がする。もっとも、これはあの時代ならそんな筋書きになるだろうなとじぶんが想うだけのことであり、証拠を挙げられるほどの裏づけはない。

 しかし、この作品にはもう一捻りがある。それは、社本の娘が、“教育的自害”とでも言うかのように頚動脈をかき切って死んだ父親の骸を足蹴にして、哄笑するラストシーンである。
 ここにはカタストロフィもなければ、じつは衝撃性さえもがない。
 この娘の前では、父親は、死のうが失踪しようがただいなくなってくれればいい存在でしかない。捨て身のメッセージ、もしくは自虐の逆説に賭けた自己投企は、なんの意味もないものとして宙吊りにされる。
 作者が、意識的あるいは無意識的に表象してしまっていることは、このディスコミュニケーションの風景、そしてその絶望性である。
 
 このひねくれ批評の蛇足として、もうひとつの感想を付け加えれば、園監督は、いわば“あの時代”を作品に体現させつつ、この暴力とセッ○スとスプ○ッタに塗れた作品をもって、ラストシーンで哄笑する娘の世代に報復を図ろうとしているように見える。
 もちろん、この作品のラストシーンがそうであるように、それは娘たちの世代には通用しない。この作品は、彼らから「問題作」とみなされ、観客の一部に嫌悪感を与えるものの、同時に映画通の一部からヘラヘラとそれなりの評価を得て流通するだろう。
 いや、それこそが園監督の“報復”が目指すところであるかもしれないのではあるが・・・。

 おっと、最後にやはりこれは付言しておかなければならない。
 村田役のでんでんの怪演である。これまでの、下町の八百屋のオヤジみたいな庶民的役柄から脱し、マシンガントークで精力絶倫の極アク人を演じている。これが成功しているのは、彼の活舌がちょうどいい具合にまずいからである。
 台詞に演技的な抑揚を込めきれないイマイチの活舌で繰り出すマシンガントークが、ワルなのにケロリとした快活な役柄に嵌り、逆に“ああ、こういうイカガワしい奴っているなぁ”というリアルさをもたらしている。
 なお、最近のテレビドラマ「冬のサクラ」では、山形のガラス工芸工房のオヤジ役をやっていたが、ここでは良い意味でまったく存在感が薄かった。この薄さを醸しだす持ち味も合わせてこの人を評価すべきだろう。
 

 この作品は近日中に、山形ほか「ファーラム」各館で上映される予定。

  
Posted by hiraku at 01:59Comments(0)TrackBack(0)映画について

2011年03月21日

大震災10日目の仙台行



 2011年3月20日(日)、山形からバスで仙台を訪れた。
 3月11日の東日本大震災のため、生活物資が不足している仙台市青葉区の友人に食料を届けるためである。

 いつもなら満席になる仙台行きのバスだが、この日の便は客が半分にも満たない。
 その多くが大きな荷物を持っている。自分と同じように宮城方面へ物資を担いでいくのか、宮城方面から買出しにやってきて帰るところなのか、と、そんな感じである。
 なかには、郷里の被災地の家族の元に駆けつけようと、物資をかき集めて山形経由で仙台入りするように見える者もいる。(JALのタグがついたバッグやケースが目に付く。震災後、山形空港は24時間体制で空輸の拠点となっている。)

 バスは笹谷トンネルを抜けるまでは高速道路を走ったが、その先は高速道路を通れないため一般国道286号に降りて仙台市内に向かった。高速から降りるときに渋滞したが、いつもより30分程度遅れの100分ほどで広瀬通りのフォーラス前についた。
 広瀬通りから仙台駅そして終点の仙台市役所まで、車窓から仙台市内の様子を観察する。

 まず、道路を走る一般車両の数が想像していたより多い。平常時の数分の1くらいだが、それでも“ああ、やっぱり車の通行量が少ないなぁ”という感じではない。それに繁華街を歩く人たちも、いつもの日曜とは比べものにならないが、まぁそこそこの数である。
 車窓から見える建物に目だった損傷は確認できない。市中心部に入る手前で、瓦屋根が一部損壊している住宅を見かけた。 また、ごく一部、ビルの外壁にヒビ割れが入っているのや、外壁の一部が剥がれ落ちているのが見えた。視認できたのはそれくらいのものである。

 多くの店は閉まったままだが、ラーメン屋やなか卯などの飲食店、FRONTO、VELOCEなどのカフェも一部営業している。駅前のダイエーの周りには長い行列ができている。
 コンビニの多くは閉店したまま。ガラスの壁には内側から新聞紙などが張られ外から中が窺えないようにしてあるが、サンクスなど一部が営業しているのを確認できた。
 駅前のバス停の集中した区間には、仙台を経由して石巻など太平洋沿岸の被災地へ向かう人々の行列ができている。その黒っぽい防寒の服装と手荷物の多さが、やはり大変な災害が起こっているのだということを感じさせる種類のちょっと異様な雰囲気を醸し出している。
 こんな風景の中で目を引いたのは、いくつかの街の花屋が、何事もなかったかのように店先にたくさんの切花を並べて営業して風景だった。

 じぶんはバスを乗り換えるために、仙台市役所前で降りた。
 市役所の正面玄関は閉まっている。この状況で玄関を閉じているのは疑問であるが、市役所に押しかける住民も一段落したということか、市職員も疲弊しているから玄関ぐらいは閉じておこうということか・・・。
 市役所前の広場には、神戸市、横浜市、堺市などからチャーターされて派遣された大型バスが並んで駐車されている。街を走る京都市の救急車も見かけた。
 遠い地方からも救援の手が差し伸べられている。だが、それらはどの程度有効に活用されているのだろうか。

 そんなことを考えながらバスを待っていると、そこに運良く手押しで弁当を売り歩いている料理屋(屋号を発声しながら売り歩いていたが聞き取れなかった)の台車が通りかかった。箱の中にあるのは「シャケ・イクラ弁当800円」。自分は、普段ならまずこの手の弁当に手を出すことはないのだが、このときは当然事情が違った。これは現状における“超豪華弁当”である。これを土産に3つ買い求めた。

 さて、山形市内のスーパーで買い求め、友人の家に持参したものは次のとおり。なお、山形市内のスーパーの棚も7割方は空になっていたので、たいしたものが買えなかった。友人宅では電気と水道は回復したが、ガスや灯油は調達の見込みがないとのことだったので、調理しなくてもいい食材を選んだ。
 牛乳1リットル入り1パック(一人1パックの購入制限があった)、日本酒(「爛漫」)1.8リットル入り1パック、トマト4個、キュウリ4本、温泉卵9個(生卵は売り切れだった)、ソーセージ、魚肉ソーセージ、鯉の甘煮、ピーナッツ入り味噌、魚の缶詰4個、自家製の餅と小豆の缶詰、柿ピー(モンテディオ山形応援のでん六「勝ピー」)、せんべい、チョコレート、さきいか、カップ麺4個、永谷園のお吸い物・・・
 自分が持参したものをテーブルの上に載せていくと、友人はそれをデジカメに収めていた。

 すぐに例の弁当を開いて友人夫妻と3人で昼食。
 友人は、今の仙台では貴重品にちがいない缶ビール(!)の栓を抜いてくれた。弁当は、シャケとイクラが乗ったご飯に、おかずとしてフキノトウの煮付けや竹の子、それに玉子焼きが添えてあるのがうれしい。たしかにこれは料理屋さんが作った弁当だなと思えた。
 「シャケ・イクラ弁当」と缶ビール・・・ああ、なんて豪勢な昼食なのだろう。友人の奥さんは涙がでるほど美味いと言った。だが、それもお互い、家族を含めて皆が無事だったからではある。

 友人は、加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』(岩波書店)と、DVDになった佐藤真監督作品の映画『エドワード・サイード OUT OF PLACE 』を貸してくれた。
 そのうち、このブログに感想を書きたい。


 さて、帰りの山形行きバスは6~7割の客を乗せていた。
 数日前のように山形経由で被災地から脱出するという緊迫感は感じられなかった。まだそういう乗客もいたし、山形に買出しに来るようなそぶりの客もいたのではあるが、仙台経由で気仙沼や石巻に向かう客とは、ずいぶんと雰囲気が違っていた。

 ところで、塩竃にいる友人にも、先日やっと電話がつながった。
 171災害伝言ダイアルのおかげで無事でいるということは分かっていたのだが、直接声を聴くまでは心配なものである。職場で地震に見舞われたが、同僚に避難させてもらい(友人は半身に麻痺があり、歩行が不自由である)、二晩ほど避難先で過ごしたという。
 友人の自宅は高台なので幸いにも津波による被害を免れたが、電話以外のライフラインはまだ復旧していないとのことだった。水がないのが厳しいようだ。
 往復のガソリンさえ手に入れば、彼にも水と生活物資を届けたいのだが、山形でもガソリン不足は深刻である・・・。


 この大震災と原発事故の経験は、じぶんたちの精神に、静かに、だが大きな影響を与えているような気がする。大げさに言えば、それはちょっぴり時代が変わるような予兆でもある。
 これから、そのことをじっくりと考えていきたいと思う。
                                                                                                                                                                                 





  
Posted by hiraku at 19:02Comments(0)TrackBack(0)歩く、歩く、歩く、